legend ej の繧繝彩色な「物語」: クレタ島クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画≪パリジェンヌ≫は女神だったのか?

2016年4月10日日曜日

クレタ島クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画≪パリジェンヌ≫は女神だったのか?

クレタ島ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡とは?

「ヨーロッパ最初の文明」であるミノア文明を象徴するクノッソス宮殿遺跡 Minoan Palace of Knossos は、エーゲ海クレタ島の中央北部、島都イラクリオン Iraklion /Heraklion の市街地から南南東へ6kmほど内陸のクノッソス地区にある(下写真)。
クノッソス宮殿遺跡の発掘者はイギリス・ロンドンの北西35kmのナッシュ・ミルズの高貴な家庭に生まれ、著名な考古学者であり地質学者であった父親と同様に、後にイギリスを代表する考古学者となるサー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans である。
エヴァンズはイギリスの有力な国会議員であり、建築学・歴史学者でもあったエドワード・フリーマン教授が教鞭を執るオックスフォード大学で歴史学を学んだ後、教授の娘と結婚している。その後、クレタ島ミノア文明の研究と現地調査に没頭して行く。そうして、今から100年以上前、1900年、エヴァンズ48歳、クノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションが開始され、作業は5年間行なわれた。
エヴァンズの功績により、世界の考古学研究者の驚きとともに、すでに今から3,500年以上前に「世界最古のお風呂」とも言われる王妃のバスタブ(浴槽)や水洗トイレ、上下水道システムまでも完備していたクノッソスのミノア大宮殿、色鮮やかなフレスコ画で装飾された部屋数1,000室を数える大規模な遺構の全容が陽の目を見ることとなる。

クノッソス宮殿遺跡 Minoan Palace of Knossos
東方の丘陵から眺めるクノッソス宮殿遺跡 全景
右方=北の方角(イラクリオン方面)/1982年 
線文字B粘土板 Clay Tablets of Linear B Script
クノッソス宮殿遺跡出土・線文字B粘土板/右上描画=「馬車の粘土板」長さ100mm/1982年

エヴァンズの発掘した3,000点に及ぶ線文字B粘土板(上写真)の解読によれば、今から3,375年ほど前、紀元前1375年頃、冬小麦の収穫が終わり、羊の毛の刈り込み作業を行う「春」の季節、1,000室を数えるクノッソスの大宮殿で火災が発生した。
遺跡から「遺体」が発見されていないことから、火災は大地震など突発的で瞬間的な事象が原因したのではなく、しかも最初の出火は夜間ではなく、数千人規模の宮殿関係者が安全に避難することができた昼間であったであろう。
誤って石製ランプを倒したとか、キッチン担当者が羊肉を焼いていた時にオリーブ油の容器を落としたとか、わずかな不注意が発端となり、夏の到来を予告するサハラ砂漠からの暖かい「南の風」に煽られ、宮殿管理の貯蔵庫に保管された大量のオリーブ油に火が回り、火炎は勢いを増し宮殿全体に広がった。
伝統的に戦いを好まず、王の住む宮殿でありながら城壁を設けず、優美なフレスコ画で装飾されたクノッソス大宮殿は真っ赤な炎を上げ、1週間、あるいは10日間以上も炎上し続けた。こうして紀元前3000年頃に始まったエーゲ海ミノア文明は、1,500年以上も繁栄を続けたが、ここに呆気なく終焉を迎える・・・

エーゲ海域の南端に位置する東西250kmのクレタ島では、クノッソス宮殿を筆頭に南西部のメッサラ平野の丘からフェストス(ファイストス)宮殿、イラクリオンの東方35kmの海岸近くからマーリア宮殿、そして、最東端の海岸からザクロス宮殿、合計4か所でミノア文明の大規模な宮殿遺跡が確認されている。

クレタ島/ミノア宮殿遺跡
クレタ島ミノア文明/クノッソス宮殿・フェストス宮殿・マーリア宮殿・ザクロス宮殿/作図=Blog管理者legend ej

「旧宮殿」と「新宮殿」/500年間続いた「宮殿時代」

クノッソス宮殿の歴史は非常に古く、「旧宮殿」と呼ばれた初期宮殿の建物は、中期ミノア時代の初期にあたる紀元前1900年頃に造営された。しかし、旧宮殿は地震と火災で焼け落ち、中期ミノア時代の終期となる紀元前1625年頃、旧宮殿の場所にさらに大規模な「新宮殿」が造営された。そして、その新宮殿も紀元前1375年頃に再び起こった火災により完全に崩壊してしまう。
ミノア文明が最も繁栄した中期から最終期にあたるクノッソスの旧宮殿と新宮殿の存在と統治と文化をして、研究者は「宮殿時代」と呼んでいる。おおよそ500年間続いたこの宮殿時代こそが、古代から現在に至るクレタ島5,000年の歴史の中で、最も繁栄して輝いた時代であった。
今日、年間250万人を数える観光ツーリストが訪れるとされるが、エヴァンズの発掘ミッションから現代に至る「復元・複製プロジェクト」で徐々に整備されたクノッソス宮殿遺跡では、ツーリストの見学が許された区画は3,400年ほど前の大火災で黒焦げに焼けただれた宮殿の基礎部の一部、そして復元建物の外周りだけである。

ミノア文明・「宮殿時代」の編年
ミノア文明・「宮殿時代」の編年

繁栄のクノッソスの街 ko-no-so(コノソ)

研究者の説では、文明の最盛期の紀元前1500年前後、宮殿時代のクノッソス宮殿周辺には、最大で4万人前後のミノア人が居住して宮殿と王の家族を支え、当時人々から「ko-no-so(コノソ)」と呼ばれた「クノッソスの街」を形成していたとされる。
大宮殿を囲んだクノッソスの街・「ko-no-so(コノソ)」は外国との戦いもなく、少なくとも500年以上の間、最大で1,500年近い期間にわたって繁栄を続けていた。戦いと覇権争いで激しく揺れ動く東地中海域にあって、連綿と続いたクレタ島クノッソスの大宮殿とそれを囲むミノア人の街の「戦いなき繁栄」は、正に≪エーゲ海の奇跡≫と言っても良いだろう。
ミノア時代~現代/クノッソスの街の呼称変化
ミノア文明=「ko-no-so(コノソ)」 ⇒ 「ko-no-sos(コノソス)」
現代=「Knossos(クノッソス)」

最大五階建て/部屋数1,000室/城壁・城門のない王宮

ミノア文明の特徴ある構造面から想定した場合、クノッソス宮殿の建物全体は少なくとも標準で二階建ての構造、王家のプライベート生活区画などがある東翼部では、露出した岩盤斜面と段差を利用しているので三階~四階部分も、あるいは地下を含めると宮殿の一部区画では最大五階という高層構造であった可能性もある。
これら新宮殿の建物がすでに3,600年前に造られ、建造物というハード面だけでなく、線文字A(終末期=線文字B)という文字を使った行政や官僚組織や財務管理システムなどソフト面を含む、王国の中央政府として機能していたのは驚きである。しかも、宮殿全体では部屋数1,000室とも推計されている。

しかし、クノッソス宮殿を初めほかの3か所のミノア文明の宮殿の特徴的な共通点では、どの宮殿でもギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡・ライオン門のように分厚い「城壁」で囲まれ、堅固な構えの「城門」が存在したことを証明する遺構やわずかな痕跡さえも見つかっていない。
戦いが極当たり前の東地中海域にあって、長期の繁栄を享受した王の住む宮殿でありながら、クノッソス宮殿の「城壁と城門のない王宮」という、信じられないこの事実はミノア文明の≪最大の謎≫でもあり、ミノア人が継承し続けて来た「平和志向」の理念と高い「精神文化」を如実に表していると言えるだろう。

クノッソス宮殿遺跡の主要遺構

ミノア宮殿に共通した特徴/石板舗装の中央中庭

大スケール感の建物遺構と素晴らしい美術様式を残したクレタ島4か所のミノア文明の宮殿には、建物の構造と配置に幾らかの共通点があり、その典型例が「中央中庭 Central Court」と呼ばれる平石板舗装の長方形の広い庭である。
クノッソス宮殿遺構の全体規模は、トップ写真でイメージできるが、最大で180m四方の広大な敷地である。宮殿の中央部にはミノア人の伝統と基本に従って、50mx25mの長方形、石板舗装された中央中庭が南北に長く配置されていた。かつて、この広い中央中庭では、公的行事や集会、王国レベルの盛大な儀式・祭典、あるいは「牛跳び/牛飛び」などの民衆参加の大規模なイベントも開催されたと考えられる。

東翼部一階・王の居室/「三部屋続き」の配置=建築様式・「メガロン形式」

東翼部一階、下作図の右上部分が「両刃斧の間 Double Axes Room」と呼ばれ、比較的落ち着いたフレスコ画で装飾され、床面が石板舗装された「三部屋続き」の王の居室となる(下写真)。この「三部屋続き」の区画では、ほとんど間違いなく、公的な政務を離れたミノア王が食事を取り、寛ぎながら家族と雑談をしたり、時には昼寝をしたりした後、美しき王妃と二人だけの熱い愛の時を過ごしたのであろう。
王の居室と隣合わせのニつの部屋の構成・「三部屋続き」の配置は、ギリシア本土ミケーネ文明の宮殿に見られる「メガロン形式 Megaron Complex」に類似する特徴的な宮殿建築様式である。この「三部屋続き」の配置法は、クレタ島メッサラ平野に建つフェストス宮殿や北海岸のマーリア宮殿の王の居室など、ほかのミノア文明の宮殿でも採用されている。
なお、ギリシア本土のミケーネ宮殿やネストル宮殿遺跡など、王の居室に絶やすことなく火を焚いた「聖なる炉」を配置したミケーネ文明の「メガロン形式」の建築様式は、紀元前1400年頃、ミケーネ人がミノア宮殿の建築様式からヒントを得て開発したとされる。ミノアの宮殿遺跡では「聖なる炉」は確認されていない。

クノッソス宮殿遺跡・東翼部・「王家のプライベート生活区画」
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・「王家のプライベート生活区画」/作図=Blog管理者legend ej
クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の間(王の居室) King's Room, Knossos Palace
クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の間(王の居室)/1982年

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王妃の間/愛らしいフレスコ画装飾

ツーリストに人気の高い王妃の間 Queen's Room は、東翼部一階、「くの字」の狭い通路と階段部分を挟んで両刃斧の間(王の居室)の南側に連結された配置である。王妃の間はスペース的には少し狭い感じだが、東側には2本円柱のベランダ形式の部屋があり、さらに東と南側には採光用の天空に開口した小さな中庭が付属されていることから、部屋の奥までクレタの明るい光が入っていたと想像できる。
王妃の間の壁面と角柱は、ミノア文明の最大の特徴である海洋性デザインの愛らしいイルカや魚達の泳ぐ様、渦巻きや抽象的な紋様、あるいは踊るミノア女性(エヴァンズ発掘レポート・スケッチ原画 Oxford Uni. Digital Library)などの美しいフレスコ画で装飾されている。
残念ながら鮮やかに描かれたイルカや紋様などの絵柄は本物ではなく、発掘後のエヴァンズによる「こうであろう復元・複製」である。また、イルカのフレスコ画の本物の破断片は、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている(後述写真)。ただし、複製のイルカ個体が描き加えられた博物館のフレスコ画さえも、残留断片が非常に少ないことから、ほとんどの部分は「こうであろう復元・複製」である。

クノッソス宮殿遺跡・王妃の間
左写真: クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間/フレスコ画の装飾/1982年
右描画: スケッチ画≪踊るミノア女性≫: Oxford University Digital Library  
王妃の間の西側には直結されたバスルーム(浴場)がある。残念ながら、現在、王妃のバスルームの立入見学は許されていない。バスルームには多くの人が関心を持っている世界最古のお風呂であるミノア王妃のバスタブ(浴槽)が置かれていた。
王妃のバスタブは高温度で焼成されたテラコッタ製(素焼き粘土)、頭を置く場が少し縁高のデザインである。バスタブの長さは約155cm、外周側面に円形とツタの葉か、パピルスの花かあるいは揺らぐアシのような植物の葉を連鎖モチーフにしたクール・デザインで装飾されていた(下写真)。
王妃のバスルームはそれほど広くなく、内部には小さな鉢植えの花などを置いた可能性がある高さ1mほどの仕切り壁と円柱1本が立っていたことから、バスタブが置かれた実用の「お風呂スペース」は、おおよそ南北2,4m x 東西2,3m(和風サイズ換算=約3畳半)である。
ちまたで「世界最古のお風呂」と話題になっている割には、ミノア王妃のバスルームは極端な豪華さは一切なく、実際にその場に立ってみると、単にテラコッタ製バスタブを使って湯水で「身体を洗う」という実用本位であったように思える。

クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の「世界最古のお風呂」 Minoan Queen’s Bath-tub
クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃のバスルーム・「世界最古のお風呂」/1982年
※現在 王妃のバスルーム=「立入禁止区域」
風呂好きの日本人なら誰もが、ミノア王妃が入浴したバスタブなので、曲線過多に特徴されるゴテゴテ装飾のヨーロッパ・バロック様式風のさぞかし豪華で大型施設とイメージし勝ちだが、現物は予想外にシンプルで小型である。3,500年以上前、当時の陶器製作の技術とクラック割れの弱点がある素焼き粘土製の材質からしても、これ以上の大型バスタブの製作は困難であったはずである。
バスタブのサイズから判断するなら、ミノア王妃がタブの中で手足と身体を真っすぐ大きく伸ばして「ああ良い湯ですこと・・・」、と入浴するには少々無理があったと推測できる。下描画は私が想像するミノア王妃の「バスタイム」の姿である:

想像1) 狭いバスタブに「直接座る」/半身を湯水につかる
想像2) バスタブの底に置いた「バスチェア(椅子)」を利用する/下半身のみ湯水につかる
想像3) バスタブの上縁に置いた「座り板」を利用する/身体は湯水につからない

クノッソス宮殿・ミノア王妃の「バスタイム」 Bath time of Minoan Queen
想像できるミノア王妃の「バスタイム」/描画=Blog管理者legend ej
そうして予め入浴準備でタブに満たされた湯水、事によると芳香のプルメリア(フランジパニ)を浮かべたフラワーバス仕様、または女官の支えるアンフォラ型容器から少しずつ注がれるハーブ入りの湯水を受け、クレタ島のまどろみの午後、ミノア王妃は目を閉じ至福のバスタイムを満喫していたのであろう。
王妃のバスルームの壁や床面は、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が火災で崩壊した「最後の状態」を今に伝えているが、私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年では、発掘後の時間経過と乾燥した外気に触れていることから、バスタブにはクラック割れ、壁面の石膏石の剥離と劣化もかなり進行していた。

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王妃の間からバスルーム南脇の通路を西方へ進むと「王妃の化粧室」と呼ばれる正方形の部屋となる。現在、この一帯は「立入禁止区域」であり、ツーリストが通路や化粧室を見ることはできない。この部屋はおそらく王妃がメイキャップや衣装の着替え、そしてトイレとして使ったと考えられる。
部屋の南西隅には石膏石のベンチが備えてあり、さらに興味深いことに、このミノア王妃の化粧室には、紀元前15世紀以前に早くも「水洗トイレ Flushing Toilet」が完備されていた。トイレ区画は王妃の化粧室の中に設けた狭い空間で、幅1,1mのトイレ区画の両脇を石膏石の厚板ボードで囲い、おそらくプライバシーを確保するために木製のドアーがあったはずで、空間の奥部に深溝を備えたシンプルな構造である(下写真)。

クノッソス宮殿遺跡・「水洗トイレ」 Minoan Queen’s Flushing Toilet
左写真: クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の「水洗トイレ」/1982年
右作図: 「水洗トイレ」の構造図/Blog管理者/1982年    
※現在 王妃の化粧室=「立入禁止区域」
私が1982年に撮った上写真でもはっきりと分かるが、トイレ空間の正面壁には石膏表装が残っていることから、王妃の間を飾った泳ぐイルカや宮廷美人などを描いた豪華なフレスコ画装飾こそなかったと思うが、おそらくこのトイレ区画はベージュ色など絵柄のない落ち着いた淡色表装であったと考えられる。
通常では、王妃がトイレを済ませた後、右上作図のようにドアーの外で待機する女官がアンフォラ型容器から床面隙間へ適量の水を注ぎ込み、汚水は壁面の下を通過して、地中に埋め込まれたトンネル状排水路から宮殿外部へ流された。この方法では、水を流すのはオートマティックでなく女官のマニュアル操作・「手流し方式」だが、処理方法の区分から言えば、列記とした「水洗トイレ Flushing Toilet」であった、と私は確信する。

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西翼部一階・王座の間

クノッソス宮殿の中央中庭に面する西翼部の真ん中付近に階上へ昇る幅のある「大階段」が復元され、その北側一階には「控えの間」と呼ばれる部屋が配置されている。この格式のある部屋は、規制が厳しいクノッソス宮殿遺跡でツーリストの立ち入りが許されている遺構の一つである。
控えの間の西奥に配置された王座の間 Throne Room は、予想に反して決して大きな部屋ではない。しかし、向かい合う想像上の動物である「グリフィン」のフレスコ画が描かれた非常に神秘的で威厳を放す部屋である。石膏石の敷かれた王座の間の壁面に沿って、部屋を3/4周するように石製のベンチが施工され(控の間側にはない)、3,400年以上前にミノアの王が実際に座っていた石製の王座が南向きに据えられている。

現在、クノッソス宮殿遺跡では写真撮影が許されている王座の間や王妃の間などを除き、多くの区画で外観を見せて内部を見せないロープ規制となり、遺跡のほとんどが「ツーリスト立入禁止」の対象になってしまった。勢いクノッソス宮殿遺跡の「トレードマーク」でもある王座の間を覗くために、見学者が控え室へ殺到して、Tokyoディズニーランドの人気アトラクションの順番待ちの如く、真夏の炎天下でも中央中庭では長い列が出来ている。

クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace
クノッソス宮殿遺跡・王座の間/1982年
※現在 王座の間=「立入禁止区域」ただし見学可能
歴史に出てくる多くの国の王座がそうであったように、この王座の背もたれも権威と格式を示すように垂直に立っている。王座の座席部分はまっ平らではなく、ヒップの形状に合わせた円形の凹みが施工され、正面視では両ヒップが安定して沈み込むように、わずかな波状加工が施されている。

この王座の間は明らかにクノッソス宮殿の統治者であったミノア王の公的な執務室であり、また神聖な儀式が執り行われた部屋でもあった。遥か3,500年以上前の状態の石製ベンチは、現在で言うならば政府の内閣官房や閣僚達が座るためにあり、王座に座ったミノア王からの指令を受け、重要会議や祭祀・儀式など、王座の間では国家レベルの決め事や高位神官による定期的な神への祈祷などが行われた、と私は想像したい。
王座の間の周辺の建物構造と配置は、宮殿・東翼部の王家のプライベート生活区画と同様にかなり複雑で、エヴァンズの発掘ミッションでは、王座の間からの出土品は「何一つ無かった」とされる。王座の間はその性格上、余計な飾り物などを置く必要のない、この部屋の神聖な空気にこそ重要な意義があったのであろう。
ただし、王座の間の北側の通廊から発見された大型の石製水盤が、1980年代には控えの間の床面に無造作に置かれていたが、何時の間にか移動され、現在、何故か?王座の直ぐ前に置かれている。

王座の間の南側正面には王座の両脇と同様に石製ベンチがあり、ベンチの背面の高さのない壁の上面には円柱が立ち、円柱の向こう側(南側)には、王座の間区画のもつ神聖さを象徴する回り階段で下がった半地下式の「聖なる浴場」が配置されている。
間違いなく、この深く暗い「聖なる浴場」では、石製ランプの灯りを頼りに祭祀・儀式の前、または最中に王や神官の手足や身体の清めなど、ほかの人が見ることのできない極めて神聖な儀式行為があったはずである。
また、王座の間の隣(西側)には、神聖な儀式に関係したとされる複数の狭い部屋が連結され、その内の一つの部屋から石製ランプが発見された。重要なことは、現在ツーリストの立ち入りが禁止されているこれらの複雑構造の付属部屋への出入りが、王座の間以外に連絡できないような「特異な構造」となっている点である。

≪グリフィン≫のフレスコ画

王座の間の北壁と西壁、二つの壁面を飾っている頭が鳥、身体がライオンのような四足動物である「グリフィン Griffin」は、ミノア文明のフレスコ画に頻繁に登場する聖なるモチーフである。同様なグリフィン描写のフレスコ画の断片が、ギリシア本土ペロポネソス・メッセニア地方のネストル宮殿の王妃の間からも発見され、さらにクレタ島ではフェストス宮殿から近いアギア・トリアダ準宮殿遺跡で発見された装飾ラルナックス棺(紀元前1400年/イラクリオン考古学博物館)の側面には、グリフィンの牽く走行馬車に女神が乗っているシーンが描かれていた。
また、ミノア文明だけでなくギリシア本土のミケーネ文明でも、さらに中東地域でもグリフィンの絵柄は象牙彫刻や石製印章や金製リングなどにも表現されている。ミノア文明のグリフィンは中東方面から伝播された空想上の聖なる動物とされている。
クノッソス宮殿の王座の間を飾るフレスコ画≪グリフィン≫に関してだが、発掘時に王座の間の壁面がほとんど崩壊状態であったことから、残念ながら壁面とグリフィンの絵柄は、エヴァンズにより復元・複製されたものである。

グリフィンのフレスコ画 Griffin Fresco
左写真: ネストル宮殿遺跡出土・≪グリフィン≫のフレスコ画 断片/1982年
右写真: クノッソス宮殿遺跡・王座の間・≪グリフィン≫のフレスコ画/1982年
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西翼部一階・クノッソス宮殿の「聖域」

王の居室や王妃の間がある東翼部の王家のプライベート生活区画、さらに西翼部の王座の間と並び、クノッソス宮殿の最も重要な区画である宮殿の「聖域」は、中央中庭の西側を占める宮殿・西翼部一階の中央付近である。西翼部の王座の間の南側には復元された大階段があり、その南側が「聖域」にあたる(下作図)。
クノッソス宮殿に限らず、古代の王国における最も重要と考えられた宮殿区画では、先ず王の執務と生活に関わる部屋や施設、さらに王妃や子供達の生活区画、そして王国の存在と庶民の精神文化を保証する宗教信仰とその関連施設であろう。
クノッソス宮殿においても、人々から神と同等に崇拝された権力者ミノア王、その威厳と権力執行のオフィスであった王座の間と並び、西翼部一階の広いスペースを占有する「聖域」は、王の住む宮殿で最も重要な意味を成す区画の一つであった。
ただ残念なことに1980年代には許されていたクノッソス宮殿遺跡の最重要な「聖域」の内部への立ち入りは、大挙して訪れる観光ツーリストの増加に伴い、遺跡保護を優先するギリシア政府当局により、完全に「立入禁止区域」に指定されてしまった。
故にツーリストは中央中庭からプラスチック保護屋根に覆われた「聖域」の正面入口周辺の崩壊壁面を眺め、内部を見ることなくその重要性をわずかに連想するだけ、あるいは「聖域」へまったく関心を抱かずにロープ規制された「見学コース」を回る以外に術はない。

クノッソス宮殿遺跡・西翼部・「聖域」
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・「聖域」/作図=Blog管理者legend ej
現在、崩壊壁材がゴロゴロと並べてあるが、中央中庭から「聖域」の正面入口へ向かって右側(北側)は「三分割聖所 Tripartite Shrine」と呼ばれる、言わば「聖域」の正面部ファサードであった。
発掘されたフレスコ画の断片などから仮想できる三分割聖所は、中央部が幾分高く、エンタシス様式の2本(または1本)の細めの円柱が立ち、柱礎周りと上部にはミノア文明の力の象徴でもあった雄牛の角を模した小型の「U型オブジェ」が置かれていた。さらに中央部より低い左右部はやはり細めの円柱が各1本(または2本)立ち、柱礎部と上部には「U型オブジェ」の装飾があった。「雄牛の角」はミノア人の崇拝する力の象徴でもあった。
ファサードの円柱の数は断定だが、多くの研究者はほとんど間違いなく合計5本存在したと考えており、中央中庭の西側、最も目立つ場所であった「聖域」の三分割聖所は、ミノア文明の宗教思想の重要性からしても、細部まで鮮やかな色彩で表装が施されていたはずである。

かつて私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪れた1982年には、三分割聖所の南側の正面入口から数段のステップで「聖域」の内部へ脚を踏み入れることが出来た。先ず石膏石舗装された東西8m・南北6mほどの空間は「石製ベンチの控え室」と呼ばれ、北側の壁面には石膏石製ベンチが有り、この「聖域」で執り行なわれたであろう重要な祭祀・儀式の関係者の待機に使われたと推測できる。
少しずつ復元されているが、西翼部のこの周辺は崩壊が激しく、明確に判断できないが、この「聖域」の区画には少なくとも18~20を数える部屋が配置されていたと想定できる。石製ベンチの控え室の南側は特に崩壊が激しい区画だが、控え室の南7m付近に正方形の小部屋があり、エヴァンズの発掘作業では、馬車や馬などが刻まれた長さ100mmの「馬車の線文字B粘土板」が発見されている(ページ・トップ・線文字B粘土板写真/右上端のBlog管理者作・「馬車と馬」のモノクローム描画)。
粘土板の部屋のさらに南側には東西12m・南北8mクラスの大きな崩壊スペースがあり、この場所は「聖域」の南端部に属して「何らかの聖なる機能」を果たしていた、とエヴァンズは考えた。

石製ベンチの控え室の北側には、石膏石舗装された二つの部屋がある。この場所こそが、クノッソス宮殿あるいは過剰に言ってしまえば、ミノア文明を象徴するに値するファイアンス製(色彩装飾陶器)の「蛇の女神像」や「ライオン頭リュトン杯(リトン杯)」など、無数の重要な祭祀・儀式用の宝飾品(後述写真)が発見された宮殿の「宝庫」の区画である。
北奥の部屋が、研究者に「神殿宝庫 Temple Repositories」と呼ばれる宝飾品の保管庫で、東西に少し離れて2か所、深さ120cmほどの方形のピット穴があり、ピット壁面は石膏石の平板で堅固な「箱状」に形容されている(左下写真)。ピット壁面には同じ高さ位置に複数の小穴が加工され、細棒が水平に差し込まれ、薄板がセットされ、その上に数々の宝飾品が置かれていた。
1903年のエヴァンズの発掘ミッションでは、当初、神殿宝庫の床面にはエーゲ海ミロス島産の多くのアンフォラ型容器や水差し容器などが並べてあった。その後、その床面下部の収納ピット穴の存在が明らかになった。
結果、三体のファイアンス製の「蛇の女神像」を初め、色塗装された貝殻と模造貝殻、石製の「ライオン頭リュトン杯(後述描画)」、ファイアンス製のトビウオやフルーツ類や花の装飾品、細かなビーズ類、動物骨と象牙製の装飾品、金製の小品、ファイアンス製のヤギを描いた装飾板など、正におびただしい数のミノア文明の宝飾品類が出土した。
神殿宝庫のピット穴からファイアンス製の「蛇の女神像」が発見されたことから、一部の研究者はこの「聖域」を「蛇の女神の聖域」と呼ぶこともある。また、二つの深い収納ピットの間に、小型だが長方形の浅い収納ピット穴があり、この中からも無数の宝飾品類が見つかっている。

参考に告白してしまうが、今では絶対に許されないが、クノッソス宮殿遺跡の警備が穏やかな1980年代、私はこの宝飾品の大型ピット穴へ降りて、自分の身体と比較して「深さを確認」したことがある。
警備が厳しい今日なら、「規制無視の日本人ツーリストの呆れた遺跡見学」として、NERIT・新ギリシア公共放送テレビのトップニュースとなって放映され、厳重な取り調べの後、「本国強制送還」の措置を受けたであろう。「30年以上も昔の事ですが心から反省をしています。ギリシア政府の担当者様、どうかお許しを!
Παρακαλώ δεχθείτε συγγνώμη μου」。

クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫 Temple Repositories, Knossos Palace
左写真: クノッソス宮殿遺跡・「聖域」・神殿宝庫/1982年   
右写真: クノッソス宮殿遺跡・「聖域」・大型ピトスの部屋/1982年
※現在 西翼部・「聖域」=「立入禁止区域」
「聖域」の石製ベンチの控え室と神殿宝庫に挟まれた部屋は「大型ピトスの部屋 Tall Pithos Room」と呼ばれ、エヴァンズの発掘作業で見つかった大型ピトス容器が1器、私が初めて訪れた1982年にはそのまま放置されていた(右上写真)。この部屋の床面にも深さの浅い長方形の収納ピット穴があり、宝飾品類が出土した。
立ち入りが許されていた1982年、広角レンズ(35mm一眼レフ・f=28mm)で撮影したピトス容器は、今日では博物館に収納されたはずだが、宮殿・西翼部の貯蔵庫群の長い通廊(後述写真)に残されている、紀元前1450年頃に属するミノア文明の典型的な大型ピトス容器と同じ様式で、類似の幾何学デザイン紋様が施されていた。また一見では「中型タイプ」に見えるが、「実測高さ=160cm」、私の肩ほどの高さの大型容器であった。
宝飾品の「地中保管」
現代的に思考すると、たとえ古代文明の時代とは言え、宝飾品の「地中保管」とはあまりの無謀な話に聞こえる。しかし特に乾燥が激しい風土であったエーゲ海クレタ島の自然環境を考慮した時、乾燥でダメージを受け易い象牙や陶器、テラコッタ製宝飾品を単純に部屋の棚上や壁面のニッチ(凹部)で保管するより、年中湿度が安定した地中の方がより有利であると、ミノアの人々は着目したのであろう。
これは現代建築の住宅の床下や半地下室の有効的な活用と類似な考え方で、3,500年前のクノッソス宮殿の指導者の賢さが見えてくる。また、宝飾品の「地中保管」に関しては、クレタ島東端のザクロス宮殿遺跡の「宝庫」では、土間にセットされた泥を積み上げた枠の中に宝飾品が保管されていたことでも、地中の湿度の活用価値はミノア人の先見の共通認識であったと考えられる。

「聖域」から出土した「蛇の女神像」

クノッソス宮殿・西翼部一階の「聖域」の内部、神殿宝庫の床面の収納ピット穴から出土したファイアンス製(色彩装飾陶器)・「蛇の女神像 The Snake Goddess」は、上半身の欠けた一体を含め、同じ製作様式の合計三体が見つかった(左下写真)。
ミノア文明のファイアンス像は、現代で例えればフランス王朝御用達であった「リモージュ色彩磁器」、あるいはスペインの高級色彩人形・「リヤドロ」に相当する、非常に高度な陶器製作の技術を応用した芸術作品であった。

The Snake Goddess, Pillar Crypt inside, Knossos Palace
左写真: クノッソス宮殿遺跡・「聖域」出土・「蛇の女神像」/1982年
右写真: クノッソス宮殿遺跡・「聖域」・東支柱礼拝室/1982年  
※現在 西翼部・「聖域」=「立入禁止区域」
高さ295mmの像(右像)では、両手に蛇を持った細身の「蛇の女神」の豊かな胸は、コルセットのような引き締まった衣装から完全にはみ出している。また、高さ342mmの大きい女神像(左像)は、両腕に蛇を巻きつけている。ミノアの時代から蛇は「神の使い」であり、特に女神との関わりが強調されて来た。これらのファイアンス像は、その製作技術と表現のもつ意味からして、紀元前17世紀の終わり頃、旧宮殿時代が終わり、新宮殿時代がスタートした時期における最高傑作の美術品とされている。
かつて1980年代~90年代、イラクリオン考古学博物館の展示では、女神像の回りには幾らかの貝殻が置かれていた。実際の発掘時に像と共に多くの貝殻や着色された模造貝殻も出土している。崇める女神と神の使いである蛇、加えて永遠の生命が宿るとされる貝殻を融合させる聖なる思想が、既にミノア文明の、特に統治者達の間には継承されていたことを意味している。

時代と信仰対象が異なるが、例えば中世9世紀~15世紀に東南アジア・カンボジアで繁栄したクメール文明の世界遺産・「アンコール・トム遺跡」を例にするなら、高さ8mの城壁に囲まれた3km四方の広大な城砦都市の中心部、「バイヨン Bayon」と呼ばれるヒンドゥー&仏教混交寺院がある。
寺院には50を数える塔が建ち、それら石造塔の四面には「クメールの微笑み」と呼ばれる観世音菩薩の顔を直接彫刻して、統治者の仏教信仰の大きさを表現していた(右下写真/合計100面以上在るとされる)。
一方、ミノア文明では雄牛や「雄牛角(左下写真)」を初め自然界の大きな力、さらに想像の世界に存在する「女神」など、具象表現した像の形状と規模は小型ながらも、3,500年以上前のミノアの統治者は、代々に渡って強力な信仰心を継承し民を束ねるバックグランドとしていた。

ミノア文明・「雄牛角」/クメール文明・「観世音菩薩」の像
ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「雄牛角」/クメール文明・アンコール・トム遺跡・「観世音菩薩」の像

「聖域」・支柱礼拝室

クノッソス宮殿の支柱礼拝室 Pillar Crypt は、復元された大階段の南側、中央中庭の西側、西翼部の宮殿の「聖域」の内部に位置している(右上写真)。上述の作図・「聖域」で示すように、支柱礼拝室は無数の宝飾品類が見つかった神殿宝庫と大型ピトスの部屋の南西側の奥部、「聖域」の中心である石製ベンチの控え室~西方の貯蔵庫群の長い通廊へ連絡できる、狭い通路のような形容の二部屋の連なりで構成されている。
双方の部屋には外部からの明り取り用の窓がなく、内部は非常に暗く、「聖所」の北側の王座の間に付属した部屋群と同様に、あくまでも石製ランプの灯りだけが頼りの「特異な場所」である。二つの支柱礼拝室の壁面は、紀元前1375年頃、宮殿崩壊時の大火災で真っ黒に焼けただれている。
その異様な雰囲気に中を覗くのを躊躇してしまいそうなこの部屋では、ミノア時代、極めて重要な聖なる祭祀・儀式が執り行われていた、と研究者は考えている。支柱礼拝室はクノッソス宮殿で最重要の場所の一つであるが、現在、残念ながら観光ツーリストの立ち入りは全面禁止となってしまった。

支柱礼拝室に立っている石積角柱の下から第2段・3段・4段目の中心より左寄り表面には、各々若干斜めに刻まれたミノア時代の聖なる「両刃斧/ラブリュス」の記号、丁度日本の「竹トンボ」や蝶(チョウ)のような刻み(後述コラム)がわずかに確認できる。両刃斧の記号は二つの支柱礼拝室の2本の支柱を合わせると合計20か所に刻みが残されていた。
ミノア文明では政治と宗教は強く結び付き、多神教の思想からして、例えば聖なる動物とされた力のある雄牛やその角を初め、色々な崇拝対象があったが、両刃斧の記号のある場所は、限られた人だけが近づくことができる非常に「特別な場所」を意味していた。
斜めに刻まれ、配置も決して規則正しいと言えないが、ミノアの人々にとりあらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で最も神聖とされた両刃斧の記号、あるいは高さ2mを越す長い支持棒に取り付けられた超大型の青銅製の飾り両刃斧は、極めて重要な「神聖な標識」であり、神と王からの最も高次な宗教的な「警告」でもあった。

支柱礼拝室の焼けただれた角柱の黒焦げ模様は、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が最終的に崩壊した時に焼けた跡である。なお、東支柱礼拝室の大型角柱を挟んで手前と奥に見える床面の浅いピット穴は、私が最初にクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年では、半分ほど灰で埋まっていたが、発掘レポートでは儀式に使った品物を収納した場所とされる。
エヴァンズの発掘時には角柱の最下から第4段目までしか残っておらず、第5段目以上と天井部分は、後のコンクリートの復元・複製である。また、私が広角レンズ(35mm一眼レフ・f=28mm)で撮影した写真では、一見、角柱は「細い角柱」を連想するが、実際には第4段目が人の背高と同じくらいで、かなり「ご太い角柱」である。一階部分の太い支柱の存在は大広間などの階上区画が存在したことを連想させる。

支柱礼拝室は二つ連結するように横並び配置され、東礼拝室の直ぐの西側にも同様な西支柱礼拝室があり、さらに北隣にも連結する複数の小部屋が配置されている。支柱礼拝室と同様に、これらの周辺付属部屋の室内も火災の跡が生々しく残る真っ黒焦げである。
立ち入りが許されていた1980年代には、3,400年前の焼けた灰のような乾いた土がそのまま残され、全てが窓もなく狭く暗い空間であった。これらの奥まった部屋から幾らかの祭祀・儀式的な用品が出土しているので、支柱礼拝室で執り行われた何か特別な儀式のための準備室、またはそれらの用品の保管室であったかもしれない。

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美しいフレスコ画の世界

≪フレスコ画の宮殿≫と比喩されるクノッソス宮殿遺跡/ミノア人の穏やかな民族性と精神文化

王妃の間の「イルカのフレスコ画」や「踊るミノア女性」などに並び、発掘時に宮殿遺構の至る場所から美しいフレスコ画の断片が多数出土している。このことから多くの研究者は、クノッソス宮殿遺跡をフレスコ画の宮殿と呼んでいる。
精神文化のバロメーターと言える部屋や廊下、天井を飾るミノア文明のフレスコ画の「人物画」では、あまりに美しく穏やかなモチーフに特徴される。まず美しいメイキャップの女神を初め、衣装からはみ出た豊かな胸やブラッシングされウエーブのかかる髪、引き締まった腰のミノアの魅力的な女性達がメインの被写体である(下写真)。
さらに宮殿の王妃の間を装飾しているイルカなど海洋生物、鳥類や小形の動物、草原の花や草など平和で自然的な優しい対象物、あるいはスペインの闘牛のような「牛跳び/牛飛び」など、庶民の全員参加のイベント行事の絵柄などもフレスコ画に採用されている(下写真&後述写真)。

クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画≪青の婦人達≫
クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画≪青の婦人達≫/1994年
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画≪イルカの絵≫≪ウズラの絵≫
左写真: クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画≪イルカの絵≫/1982年  
右写真: 宮殿南方・キャラバンサライ遺構出土・フレスコ画≪ウズラの絵≫
ミケーネ宮殿遺跡出土・フレスコ画≪宮廷婦人の絵≫
ミケーネ宮殿遺跡出土・フレスコ画≪宮廷婦人の絵≫/1987年
描画の技法面で言えば、この美しいフレスコ画は顔料を混ぜ合わせるグラデーション技法ではなく、古代エジプト絵画や京友禅の原画や5月の空に泳ぐ鯉のぼりのように、先ず濃暗色の輪郭線を描き、その内部をわずかに異なる単色で塗り、それぞれ単色のもつ特徴を強調する「繧繝彩色(うんげんさいしき)」の技法で描かれている、と言えるだろう。
ギリシア本土ミケーネ文明のフレスコ画
紀元前1375年頃、クノッソス宮殿は大崩壊を起こして、事実上ミノア文明の宮殿システムは終焉を迎え、エーゲ海域の覇権は先行したクレタ島ミノア文明から1世紀以上遅れながらも、すでに紀元前16世紀頃から急速にギリシア本土で興隆してきたミケーネ人へと移行して行く。
ほぼ完璧な状態で出土したミケーネ文明のフレスコ画を例に挙げれば、紀元前13世紀頃の美しい作品であるが、ミケーネ宮殿・南翼部の邸宅遺構で見つかった「宮廷婦人の絵」がある(上写真)。このフレスコ画は明らかに2世紀前に消滅したクレタ島ミノア美術から大きく影響を受けていると判断できる。ただ、200年という時間の経過により、ミケーネ文明のフレスコ画は、その精緻さやリアリティ面など表現力において先輩恩師であるミノア文明より遥かに洗練されてきたことも分かる。
女性達の宝飾品やバストの大きさなどは、ミノアとミケーネ・フレスコ画ともに豊かであるが、華やかでキレイさを強調したミノア文明の三人の「青の婦人達」より、ミケーネ宮殿の「宮廷婦人の絵」の方が、高いフレスコ画技法とより洗練された美的センスを裏付ける、知的でちょっと気取ったクールビューティとも言えるモダンな雰囲気が漂っている。
フレスコ画≪女神パリジェンヌ≫も含め、3,200年~3,500年前のエーゲ海文明の女性達は、現代の日本のキレイな女性達と同様に、全員が一様に眉毛を美しいカーブで細く長く切り揃えている。その整った目鼻立ちから推測すれば、早くも何か特別な「美容術」が流行っていたのかもしれない。

フレスコ画≪パリジェンヌ≫は女神だったのか?

ロングドレス姿・X脚の簡易スツールに座る「フェミディカールのグラマラスな艶髪の女神」

製作は紀元前1500年頃に遡り、「パリジェンヌ la Parisienne」と名称された魅力的なフレスコ画は、発掘者エヴァンズがこのフレスコ画をクノッソス宮殿の西翼部で発見した時、思わず「オー、パリジェンヌ!」と叫び、その美しさに歓喜した、という伝説的な話が伝わっている(左下写真)。
フレスコ画≪パリジェンヌ≫の断片(イラクリオン考古学博物館・登録番号11・高さ250mm)を発見した後、エヴァンズは母校オックスフォード大学にスケッチ画(写真情報=Oxford University Digital Library)を残している。エヴァンズの描画から私には、「パリジェンヌ」は京都・西陣織より豪華なロングドレスの衣装を羽織って、戦国の世で野戦の武将が腰掛けたX脚の床机(しょうぎ)タイプの簡易スツールに座った腰周りの福与かな「美しい女神」と判断できる(右下写真)。

クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画≪パリジェンヌ≫La Parisienne
左写真: クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画≪パリジェンヌ≫/1994年
右写真: 「エヴァンズ・スケッチ画」:Oxford University Digital Library  
「パリジェンヌ」、彼女の正面には、(出土したフレスコ画が少ないために顔部分だけしか描かれていない)、やはりロングドレス or スカート衣装のミノアの若い女性(女神 or 巫女(みこ))が、「パリジェンヌ」の方へ向かって何か話しかけている、または「パリジェンヌ」へ何か容器、おそらくワイン入り儀式杯を差し出そうとしている立ち姿が描写されている。
日本の若い女性達の読むファッション雑誌の言葉を借りるならば、東京・青山の人気のヘアサロンでセットしたような「フェミディカールのグラマラスな艶髪」が特徴の≪パリジェンヌ≫。胸を張ったその正しき姿勢と大きな瞳の向いている方角から、この「パリジェンヌ」とロングドレス衣装の若い女性(女神 or 巫女)が話し合っている、または儀式杯を捧げている、というエヴァンズの想定は間違っていないと判断できる。

聖なる結び目の女神
目にも鮮やかなルージュをひいた「パリジェンヌ」の首筋(うなじ)部分には、ループカーブしている深紅色のロープ、または太い紐(ひも)が描かれている。エヴァンズは、これを「聖なる結び目 Sacral Knot」と呼び、本人が街に住む普通のミノア女性ではなく、宮殿の聖所や儀式などに関わる特別な存在の女神、あるいは位の高い巫女を意味していると考えた。


ミノア文明・「聖なる結び目」・「聖なる両刃斧」
なお、ネクタイ結びに似たこの「聖なる結び目(ファイアンス陶器/アテネ国立考古学博物館・登録番号653)」は、幾らかの女神のフレスコ画や「蛇の女神像」のコルセットの綴じ部分や腰バンド、石製や象牙製の彫刻品などにも残されている。この結び目は両刃斧や雄牛リュトン杯と同様に、ミノア文明やミケーネ文明の人々の精神文化と祭祀に深く関係する、女神だけが付けることのできた神聖なるシンボルでもあった。
背骨が極端に湾曲しないことから普通の男性ではポーズできないが、「パリジェンヌ」は腰を引き、背を美しく弓なりにカーブさせ、胸を張り、肩から首筋(うなじ)と頭部を垂直に保ち、たいへんと魅力溢れる女性特有の座り姿勢で描かれている。
その腰~背にかけ流れるような曲線の秘めたる魅力を強調するため、今日の多くのファッション・モデルもポーズ表現に採用しているが、男性から見れば「パリジェンヌ」の座り姿は「セクシー度100%」と言うか、ゾクゾクするような何とも言えない「勝負姿勢」として女性だけが凛と決められる美しい座り方である。
発掘者エヴァンズの「聖なる結び目」にならい、世界の考古学者に問うことなく、私は「パリジェンヌ」の座り姿に勝手に名称を付け、ミノア文明の女神だけに許された「聖なる座り姿勢 Sacred Stability Posture」と呼ぶことにしている。

参考までに言えば、ブログURLシンボルは、ミノア文明で崇拝された聖なる「黄金の両刃斧/ラブリュス」をモチーフにしています。
フレスコ画≪パリジェンヌ≫が発掘された場所は、支柱礼拝室や神殿宝庫など中央中庭の西側を占める西翼部一階の「聖域」と貯蔵庫群の長い通廊との境目付近とされる。
このことから、西翼部一階の最も西側、宮殿直轄の貯蔵庫群を結ぶ南北に長い通廊と同様に、もし宮殿の西翼部二階にも多くの豪華な広間を結ぶ同じような50m以上、最大で75mの南北に長い通廊が、壁面など建築構造から判断して、階下と「同じ位置関係」で存在していたと推測できる。
発見場所からして「聖域」の窓のない狭い準備室などの壁面にはフレスコ画はなかったはずで、導かれる最も納得ゆく答は、「パリジェンヌ」は西翼部二階の長い通廊の「東側壁面」を飾っていた可能性である。そうならば、フレスコ画≪パリジェンヌ≫は、紀元前1375年頃、宮殿の崩壊時に階上の通廊から小片となって真下の階下へ崩落したと考えて良いだろ。
発掘者エヴァンズは、クノッソス宮殿の西翼部二階をイタリア・ルネッサンス様式の大邸宅からヒントを得て「Piano Nobile/高貴な造りのフロアー Noble Floor」と呼び、王座の間や支柱礼拝室や貯蔵庫群が配置された階下とは異なり、二階部分は豪華な装飾の大広間や客間や立派な通廊で構成されていたと想定した。

Long Corridor for Storerooms, Knossos Palace
左写真: クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の長い通廊/1982年 
右写真: クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫床面の収納ピット/1982年
※現在 長い通廊と貯蔵庫群=「立入禁止区域」
左上写真の「長い通廊」の左側壁面の真上が二階「フレスコ画の通廊」の東壁面

キャンプスツールのフレスコ画

「聖域」の周辺では発掘の過程で、階上から崩落したと考えられる「パリジェンヌ」と一緒に色々なフレスコ画の微細断片が出土している。しかし、ほとんどは土と化しその数と量もそれほど多くなく、ジグソーパズルのように出土断片をつなぎ合せ、フレスコ画の全体を簡単に復元することは不可能であった。
ただ、エヴァンズの想像では、二階に存在したと想定できる50m以上、最大で75mの南北に長い通廊の、私は東側壁面と仮想するが、壁面全体にわたって、横線で区切られた高さ75cmほどの横帯状の「青い描画スペース」が上下二段、合計高さ1,5m前後で設けられていた。
簡易スツールに座った「パリジェンヌ」と立ち姿の若い女性(女神 or 巫女)が互いに向かい合って「二人一組」を成すように、同じようい向かい合う座りポーズのロングドレスの色々な女神と立ち姿の若い女性(女神 or 巫女)がやはり「二人一組」となり、その横帯状の描画スペースに延々と連続的に描写されていたとされる。
これを以って、「パリジェンヌ」を含む二階の50m以上、最大で75mの長い通廊を飾っていたであろうこの一連のフレスコ画は、ヨーロッパの研究者の間では、女神達の座るX脚のアウトドアー用折りたたみ式腰掛け Camp Stool から由来した「キャンプスツールのフレスコ画 Fresco of Campstool」と呼ばれている。なお、下写真のフレスコ画のイメージでは、「パリジェンヌ」は上段・左から三番目に座ってる。

「キャンプスツールのフレスコ画」Demosthenis/Inter-kriti
クノッソス宮殿遺跡・「キャンプスツールのフレスコ画」
写真情報: Demosthenis/Interkriti,/Iraklion, Crete
一連のフレスコ画では、手の動作と位置は微妙に異なるが、「二人一組」の全ての立ち姿の女性(女神 or 巫女)は、ゴブレット杯やミノア様式の水差し容器を捧げ、相手となる自分の前の簡易スツールに腰掛けたそれぞれの女神が差し出す聖なる受け容器へワインを注ぐか、あるいは水差し容器や儀式杯そのものを座り姿勢の女神へ渡そうとしている神聖なシーンであった。
エヴァンズの推測が正しければ、クレタ島ミノア文明の特徴的な色、エーゲ海と同じ高彩度の「青い壁面」を背景に、赤や黒や黄色などを使い、「キャンプスツールのフレスコ画」は美しい色彩で精密に仕上げられていた。
そこには向かい合う腰掛けたロングドレスの女神と立ち姿の巫女など、おそらく上段に25組、下段にも25組、上下二段で50組前後、合計100人前後の聖なる女性達が、まるで日本の平安朝の絵巻物のように描写されていた訳である。それは正に長い通廊の壁面に世界に誇る和国の美しい花、ソメイヨシノの桜が開花したような、先史の時代に類を見ない圧倒的に華やかな装飾壁画であったに違いない。

「キャンプスツールのフレスコ画」はただ単に豪華であったと一言では表現できないほど、宮殿・西翼部の二階に配置された「Piano Nobile」の壮麗な広間へと案内される遠来の客人達が歩む長い通廊に相応しい、圧倒される美しい絵柄であった。流麗なハープの伴奏に合せゆったりと踊るような女性達の優美なその立ち振舞いの連続描画は、その場を歩む全ての人が感動せずには居られないほど優しく、そして落ち着き感をかもす高貴な雰囲気を漂わせていたことであろう。
それはまるでフランスの作曲家ジュール・マスネの間奏曲≪タイスの瞑想曲≫のヴァイオリンとハープによる甘美な調べが奏でられているかのように、純粋に優雅、醇然たる表現力で・・・
これが事実であったなら、「パリジェンヌ」を含む、50m以上、最大75mの「キャンプスツールのフレスコ画」の長い通廊は、1,000室を数えた壮大なクノッソスの大宮殿で、いや当時のエーゲ海全域の宮殿や邸宅の中で「最も美しい場所」の一つであったかもしれない、と私は勝手に美的な夢想を抱いてしまう。
日本の最初の王国・邪馬台国を治めたとされる「女王・卑弥呼」が登場する時代より 1,700年前、今から3,500年以上の昔、クノッソス宮殿の西翼部二階の長い通廊には、すでに100人を数えるミノアの美しい女神と巫女の姿が、ゆったりと全員で踊る優雅なバレーダンスかマスゲームのように精緻なフレスコ画で描かれていた。

クノッソス宮殿の多くの広間や部屋は、特に宮殿・西翼部二階と東翼部二階~四階では、15m~18m四方レベルの大広間を含め、全ての部屋が≪パリジェンヌ≫のような美しいフレスコ画で装飾されていた。場所によっては、柱や壁面、窓辺や天井までも、部屋の全面がフレスコ画装飾であった可能性もある。
研究者の間ではフレスコ画の数量とその高い表現レベルから、クノッソス宮殿は≪フレスコ画の宮殿≫とも比喩されている。それを裏付けるように発掘作業では東北翼部の工房群や窓のない狭い地下室部屋や単純倉庫などを除き、宮殿全域の28か所の部屋から大小無数の破断フレスコ画が発見されている。

「パリジェンヌ」の座り方/金製リングの女神と同じか?

個人的に興味深い点は、エヴァンズの描いたスケッチ画で簡易スツールに座る「パリジェンヌ」の姿勢が、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡から南方へ20kmほど、世界遺産ティリンス遺跡から出土した超大型の金製リングに刻まれたミノア文明の女神(下写真・左側で鎮座するロングドレスの女神)の姿勢とまったく同じであるという事実である。正に女神は私が勝手に付けた「聖なる座り姿勢」そのものである。
フレスコ画≪パリジェンヌ≫の両腕部分は欠損しているが、エヴァンズのスケッチ画や「キャンプスツールのフレスコ画」のイメージでは、素肌の腕は前方へ向けられている。「パリジェンヌ」もティリンス遺跡の金製リングの女神と同様に、エヴァンズの想像通り、「聖なる結び目」を付けた女神だけに許された聖なる容器、または金製ゴブレットなどワインを受ける大きな儀式杯を胸の前方で保持していたのであろう。

ギリシア本土ティリンス遺跡・金製リング
左写真: ギリシア本土ティリンス遺跡・金製リング/1987年
右写真: 金製リング出土の王家のトロス式墳墓/1982年 
ティリンス遺跡の「王家のトロス式墳墓」から出土した横幅57mmの金製リングは、紀元前15世紀頃、クレタ島クノッソス宮殿を治めたミノア王からティリンス宮殿の王、または王妃へ献上されたものと考えられる。であるならば、ほとんど同時代で共通な神聖なミノア美術モチーフからしても、間違いなくクノッソス宮殿のフレスコ画・≪パリジェンヌ≫は「美しいフェミディカールのグラマラスな艶髪の女神」を描いたもの、と私は確信をもって強調できる。
何故に「パリジェンヌ」なのか?
ミノア文明とパリジェンヌは関係ないじゃん。何がパリジェンヌなのよ! ちっとも理解できないわ!」、という意見がある。確かにその通り、クノッソス宮殿遺跡からフランスの首都パリはあまりに遠く離れた距離にある。
「フランス革命」の後、1830年の「7月革命」、さらに1848年の「2月革命」の市民革命を経たフランスは、1800年代後半~1900年代前半になり、社会の安定化が図られた結果、首都パリは正に「芸術の都」となり作曲家や画家が集まり、バレー音楽なども急激に発展してきた。
音楽ではロマン派のサン・サーンス、印象派のドヴュッシーや≪展覧会の絵≫のラヴェルが、画家では印象派のマネやクロード・モネ、さらにドガやルノワール、続いてゴーギャンやロダン、ゴッホやロートレックなどが活躍した時代であった。1789年に起こった「フランス革命」の100周年となる1889年には、パリ市内にはエッフェル塔が建造され、≪パリ万国博覧会 Expo-1889≫が開催されるほど、「産業革命」を成し遂げたイギリス・ロンドンと並び、当時のパリは誰もが認める世界の中心都市であった。
活況のパリの街は華やぎ、考古学者エヴァンズの活躍した1900年代の初め頃は、「美しい女性=パリジェンヌ」という社会認識の方程式が成立する時代で、最先端の都市パリに住む女性パリジェンヌは世界の男性諸君の“憧れ~の的”であった。
クノッソス宮殿遺跡はパリとは無縁であったが、そんな折、20世紀の最初に始まった発掘ミッションで美しいフレスコ画の断片を見つけたエヴァンズが、即時に「パリジェンヌ」を連想したことから、このフレスコ画に名称が付けられた。特にフレスコ画に描かれたミノアの女神が「フランス女性に似ていた」という訳ではなく、美的な女性の絵柄だからこそ、時代を映してパリジェンヌに匹敵する「美しい女性」を100年前の男達が、誰もが疑うことなく褒め称えたのである。
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フレスコ画≪牛跳び≫/東翼部・東大広間=「大女神の聖所」だったのか?

ミノア文明の「牛跳び/牛飛び(雄牛跳びとも言う)」とは、現代で言えば、全員集合のお祭り的な大きなイベント開催の時に行われた、おそらくスペインの闘牛に似た「見世物」や「スポーツ」、あるいは幾分神聖な「儀式」の一つであったと考えられる。
勇気あるミノアの若者達が暴れる雄牛の角に捕まったり、背にまたがったり、動き回る牛の背の上で逆立ちしたりするなど、非常にアクティブな行為であった、と推測できる。ミノア文明の特徴的とも言える「牛跳び/牛飛び」では、象牙製のほかに、クノッソス宮殿遺跡の東翼部から紀元前15世紀の美しいフレスコ画が出土している。
ただクレタ島内で発見されている幾らかの石製印章や容器の絵柄、あるいは彫刻などの「牛跳び/牛飛び」の表現を除き、雄牛の背中を跳ぶという、同様な内容を描いたほかのフレスコ画や陶器の絵柄のサンプルが乏しいことから、ミノア時代に「牛跳び/牛飛び」がどのような状況で行われていたのかなど、未だに不明点が多いことも事実である。

クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画≪牛跳び≫
クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画≪牛跳び≫/1994年
宮殿・南翼部に複製された高さ2m強のいわゆる≪グリフィンを牽くプリースト・キング(祭祀王/ユリの王子)≫のフレスコ画に比べると、決して大型フレスコ画ではないが、高さ約78cmのフレスコ画≪牛跳び/牛飛びの断片が見つかった場所は、中央中庭の東側で両刃斧の間(王の居室)や柱廊の間などが配置された東翼部・王家のプライベート生活区画の直ぐ北側であった。
発掘者エヴァンズは、フレスコ画≪牛跳び/牛飛び≫が見つかった区画の階上には、中央中庭の地面レベルよりほんの少し高い東翼部三階に相当する、東西18.5m 南北15mの「東大広間 Great East Hall」が配置されていたと想定している。その大広間の機能は、宮殿の最も重要な施設の一つであった「大女神の聖所 The Great Goddess Sanctuary」との連動であったとされる。

クノッソス宮殿遺跡・東翼部・「王家のプライベート区画」
クノッソス宮殿遺跡・西翼部~東翼部・「王家のプライベート生活区画」/作図=Blog管理者legend ej
中央中庭から東大広間へ上る12段の階段の途中には3本の円柱が、さらに大広間の入口にも3本の大型角柱が立ち、内部には8本の円柱が中心部におおよそ「8m x 8m」のスペースを作るように配置され、広い天井を支えていた。この円柱群に囲まれた広間の中心スペースに関して、エヴァンズは天空に開口した採光吹抜け構造であった可能性を指摘している。
東大広間の区画からは(実際の発掘=階下の貯蔵庫付近)、≪牛跳び/牛飛び≫以外にも無数のフレスコ画の断片が見つかっている。その多くは競技やスポーツに関連する絵柄と判断され、フェストス宮殿遺跡から4kmのアギア・トリアダ遺跡からの滑石ステアタイト製の≪ボクサー・リュトン杯(イラクリオン考古学博物館・登録番号498)≫、あるいはエーゲ海サントリーニ島のアクロティーリ遺跡のフレスコ画と同様なボクシングやレスリングと推測できる絵柄があり、想像上の動物・グリフィンの絵柄も含まれていた(下描画&写真)。
多くの研究者は、宮殿・東翼部の三階に配置されたエヴァンズの言う東大広間(大女神の聖所)の壁面には、≪牛跳び/牛飛び≫を初め、激しい動作を伴ったアクション系のフレスコ画が、まるで1990年代まで全盛であったアニメ用の「セル画(セルロイド画像)」と同様に、一連のスローモーション画像を一枚ずつ表現するかの如く連続的に描かれていた、と推測している。

ボクサー・リュトン杯/フレスコ画≪ボクシング≫
左描画: アギア・トリアダ遺跡出土・「ボクサー・リュトン杯」/Blog管理者
右写真: サントリーニ島アクロティーリ遺跡・フレスコ画≪ボクシング≫ 
スペインの闘牛との比較で連想することはできるが、今日の常識から言えば、フレスコ画≪牛跳び/牛飛び≫は少し誇大な描写とも考えられなくもない。私はずーと若い頃に鉄棒や吊り輪、床運動などの体操競技に熱中していたので理解が早いが、本当に暴れ狂う雄牛の背中で逆立ちして、尖った角を平行棒代わりに掴むという「E難度」と言うより、非常に危険なパフォーマンスが行われていたのであろうか?
ただ疑問符が付けられても、クノッソス宮殿遺跡のフレスコ画では、間違いなく三人のミノアの若者達が暴れ狂う雄牛を相手にした、かなり危険に見える行為か儀式などのシーンを大胆に表現している美術的・文化的な意味は大きい。「牛跳び/牛飛び」はエジプトや中東地域でも美術モチーフとして選ばれているように、先史の時代に人々が好んだ非常に重要な日常的・伝統的なイベント、または日本の神楽に似た神への奉納儀式であったのかもしれない。

またエヴァンズは東大広間の北壁面の真下にあたる階下区画から複数の青銅製の固定具を発見している。出土した金具のサイズと推測できる機能面から、大女神の聖所と想定できるこの東大広間の東側の最奥部には、顔の長さ40cm、全身では高さ3mの「聖なる女神」の大型木製像が安置されていた、とエヴァンズは考えた。

「牛跳び」をしたのは誰なのか?

フレスコ画≪牛跳び/牛飛び≫に描かれている三人の人物に関して、ロングヘアなどが判断材料と思うが、ミノアの「男性一人と女性二人」という研究者の説が有力である。
しかし、私は発掘されている複数のフレスコ画から判断するならば、女神を含めてミノア時代の女性は極めて静的で優雅、優しさを強調していると考えられることから、ミノアの女性が大怪我もあり得るかなり危険な「牛跳び/牛飛び」に主役で参加していたとは、どうしても想像できないのである。
また、左右の白人らしき人物は確かに胸に女性的な特徴があるように見えるが、腰が強調的に絞られて描写されているために反作用で胸が大きく見えるのであり、詳細にチェックすると間違いなく男性の顔の表情が見て取れ、鍛えられた若い二人の男性の筋肉描写と思える。

さらに彼ら二人が腰にまとっているは、クレタ島東端のパライカストロ町遺跡の山頂聖所から出土したテラコッタ製・「男性兵士の像」、あるいはイラクリオンから南西15kmのティリッソス邸宅遺跡から出土した青銅製の「敬礼する男性像」などに共通する、日本古来の「ふんどし」のような男性用の衣装と判断できる(下描画)。
ミノア時代の女性が好んで着用していたのは釣り鐘型のロングスカートであり、優しさとエレガントな雰囲気を大切にしていた豊かなバストのミノア女性が、勢いビキニ水着に近い男性用の「ふんどし」風の布切れをまとい、宮殿の中央中庭やカイラトス河畔の広場に集まった大勢の人々の面前で、大胆不敵に危険なイベント参加をしたであろうか? あくまでもミノアの女性達はイベントや儀式では観客席を埋めていたはずである、と私は想像するのだが・・・

ミノア文明・テラコッタ塑像/青銅製像/象牙製≪牛跳び≫
ミノア文明・テラコッタ塑像/青銅製像/象牙製≪牛跳び≫
描画=Blog管理者legend ej/1982年
故に私は、フレスコ画≪牛跳び/牛飛び≫の人物は、ミノアの「男性二人」、そして交流が深かったエジプト方面からアフリカの猛獣などを引き連れてやって来た「黒人男性」と判断したい。彼らは訓練を重ねた曲芸サーカス団のメンバーのような存在で、お祭りや儀式祭典などに合わせて、定期的に各地の宮殿地区を巡回した命知らずの見世物の芸人であったのではないだろうか。これはあくまでも多くの研究者の判断と大きく異なる私の独断的な推論なのだが・・・
あるいは雄牛の背中で逆立ちをしている真ん中の人物は「黒人」ではなく、緊張の「牛跳び」の勇者を強調するために、フレスコ画の作者があえてパワーを象徴する赤色で人物を色付けしたとも推測できるが・・・

クノッソス宮殿遺跡と周辺からの膨大な量の出土品

エヴァンズの発掘ミッションを通じて、壮大なクノッソス宮殿遺跡と周辺からは、東方のパレスチナやエジプトから影響を受けた宝飾品や陶器などだけではなく、自らの文化の繁栄と技術を示す作品が数多く発掘されている。
特に重要な出土品は宮殿の「聖域」・神殿宝庫など宝飾品を収めた部屋、あるいは宮殿の外部の邸宅遺跡や埋葬墳墓などからも多数もたらされている。
ミノア文明を代表する出土品は、ファイアンス像(色彩装飾陶器)や石製リュトン杯、精巧な象牙作品や美しいフレスコ画、美的な器形と洗練の絵柄の陶器類などで、記録としての3,000点を数える線文字B粘土板を含め、これらのほとんど全ての出土品は、現在、島都イラクリオンの考古学博物館で展示公開されている。
ただ、見事な加工技術と信じられないほど優れたデザイン性の大理石製リュトン杯などが無数に出土した、未盗掘の状態で発見されたクレタ島最東端のザクロス宮殿遺跡に比べると、儀式・装飾用の石製リュトン杯に関しては、クノッソス宮殿遺跡と周辺からの出土品はそれほど多くはない。
さらに金製カップなど金属宝飾品では、ミノア文明の影響を受けたギリシア本土ミケーネ文明の方が、出土品の数量だけでなくその芸術性や技術面で上位と判断できる(下写真)。

クノッソス宮殿遺跡出土・「雄牛リュトン杯」
左写真: クノッソス宮殿遺跡出土・「雄牛リュトン杯」/1982年 
右描画: 「ライオン頭リュトン杯」/描画=Blog管理者/1982年
ミノア文明・クラテール型容器/大理石製リュトン杯
左写真: フェストス宮殿遺跡出土・クラテール型容器・高さ455mm/1982年
右描画: ザクロス宮殿遺跡出土・大理石製リュトン杯・高さ405mm/1982年
描画: Blog管理者legend ej
デンドラ遺跡・ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ
左写真: ミケーネ文明・デンドラ遺跡出土・金製カップ・口径178mm/1987年 
右写真: ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ・口径106mm/1982年

城壁・城門のない王の住む宮殿

歴代のミノア王が居住したクノッソス宮殿の周囲には「城門も城壁的な防御施設も存在しない」、という驚くべき事実も判明している。ギリシア本土ミケーネ宮殿(ライオン門)やティリンス宮殿、あるいは東方パレスチナなどでは強固過ぎるくらいの城壁が存在するように、この時代では外敵からの攻撃を防ぐ堅固な城壁は、宮殿建築の常識であったはずである(下写真)。
クノッソス宮殿が城壁や堅固な城門を築かなかった意味は、中東やエジプトへ続くこのエーゲ海域において、偶然にも紀元前2000年頃~宮殿時代の500年間も平和な時代が続いたことの証なのか、「迷宮」にも通じる不思議なことである。
城壁を築かない無防備な宮殿と戦いを好まない穏やかなミノア人を裏付けているのは、クノッソス宮殿だけでなく、クレタ島メッサラ平野のフェストス宮殿や東部のマーリア宮殿、最東端のザクロス宮殿などにも共通して城壁的な遺構や痕跡がまったく確認できていない点が挙げられる(下写真)。

ミケーネ宮殿&ティリンス宮殿 Mycenae Palace and Trinth Palace, Argos
左写真: ミケーネ宮殿遺跡・ライオン門/1982年
右写真: ティリンス宮殿遺跡・城壁/1982年  
フェストス(ファイストス)宮殿遺跡 Minoan Palace of Phaestos
フェストス(ファイストス)宮殿遺跡 全景/1982年

優美な宮殿様式陶器

フレスコ画と同様に、美術と文化レベルを顕著に表す陶器では、既にクレタ・ミノア人が確立していた植物性と海洋性デザイン様式陶器の影響を受け、紀元前1500年代、主にギリシア本土ミケーネ地方で発達した陶器技法がクレタへ逆輸入され発達、特にクノッソス宮殿で愛用されたのが「宮殿様式陶器」と呼ばれるアンフォラ型容器である。
イラクリオン考古学博物館で展示公開されている宮殿様式の典型的なアンフォラ型容器(登録番号8832)は、3か所にハンドルが付けられ、形式化されたユリとパピルスをモチーフにして、黄土色の無地を生かした優美な絵柄が流れるような線と円形のコンビネーションで描かれている(右下写真)。
これは形容から実用としての貯蔵用に見えるが、高級なアクセントとして宮殿の大広間などに置いた装飾用の大型の容器である。この時代のクレタ・ミノア人の陶芸技術が、いかに高いレベルに到達していたかを物語る代表的な作品例と言える。

製作の技術面も含め、ウェストを絞り、美しいヒップラインを強調した女性の「マーメイド・ローブ」のようなビューティ・シルエットの宮殿様式陶器は、当時、ギリシアやエジプトや中東パレスチナを含めた東地中海域で「最も美しい陶器」の一つであった、と私は確信する。
クレタ島で長い間製作され続けてきたミノアの伝統的なカマレス様式陶器(左下写真)とは異なる宮殿様式陶器は、大型のろくろを使って作られ、容器デザインは簡素化され、原料に肌理の細かな陶土を使い、高温度で焼成することで硬度が高く、洗練された美しい形式と自然主義を活かした抽象的な絵柄モチーフなどに特徴がある。

ミノア文明・カマレス様式陶器/宮殿様式アンフォラ型容器
左写真: フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式陶器(下段中央 水入れ・高さ267mm)/1982年
右写真: クノッソス宮殿遺跡出土・ミノア宮殿様式アンフォラ型容器・高さ700mm/1994年   
ミノア文明・海洋性デザイン様式陶器/ミケーネ文明・「兵士の絵柄」容器
左写真: ミノア文明・海洋性デザイン様式アンフォラ型容器/1994年
右写真: ミケーネ文明・「兵士の絵柄」クラテール型容器/1987年 

自然主義のミノア人/好戦的なミケーネ人

クレタ島の多くの場所で確認されたミノア時代の墳墓からは、ギリシア本土ミケーネ文明とは異なり、武器や武装具などの戦いに関する副葬品がほとんど出土していない点にも特徴がある。
さらに時代と社会思想が色濃く反映される陶器の絵柄モチーフを例に取っても、ミノア陶器では一貫して自然主義を尊び、タコや魚や貝類などの海洋性デザイン、ユリやサフランやパピルスなどの植物性デザインが優先採用されてきた(左上写真)。
一方、ギリシア本土のミケーネ陶器では戦闘シーンや精強な兵士や多種の武器、近代兵器の二輪戦車など好戦的な絵柄、堅苦しい抽象的デザインが採用されてきた(右上写真)。
この一目瞭然と言える両者の芸術表現を見る時、ほとんど同時代にエーゲ海域の隣同士で繁栄したのに関わらず、二つの文明の精神文化の特徴には大きな隔たりを感じる。あくまでも自然と平和を愛し、戦いを好まないミノア人の社会と文化は、先史の時代の東地中海域では、偶然で稀な安定した文明であったと言える。

●関連Webページ: 旅人legend ej の「クレタ島ミノア文明」サイトマップ
●関連Webサイト: 海外旅行1,200日・世界47か国 
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