legend ej の繧繝彩色な「物語」: イエメン砂漠/ワディ・ハダラマート大渓谷/真夏 熱射60℃ 灼熱の世界

2015年11月19日木曜日

イエメン砂漠/ワディ・ハダラマート大渓谷/真夏 熱射60℃ 灼熱の世界

世界遺産 イエメン首都サナア旧市街/露天市場スークの活況/「男達の世界」

イスラムの国イエメン共和国はアラビア半島の先端、紅海~アデン湾~インド洋に面する国土は東西に伸びた「長方形」に近似、面積は日本の約1.5倍であるが、人口は約2,450万人である。
その約1/3を占める西部~南西地域は標高2,000m~2,500mの荒々しい山岳高地、残りの東部地域の北側半分は北方サウジアラビアと東方オマーンから広がるアラビア砂漠(国土内=イエメン砂漠)の黄色の砂に覆われ、そして南側半分は草木のない標高1,000m~2,000mの荒涼とした岩砂漠がアデン湾~インド洋沿岸まで迫っている。また、南西端から紅海を隔てた対岸のアフリカ・ジブチまでわずか25kmである。

私が中東地域で「最も誠実で誇り高き人々の住む国」と言われる、≪アラビアンナイト≫の国イエメンを訪れたのは1998年の真夏8月、毎日が直射60℃の灼熱の気温と極乾燥、アラビア半島で最も厳しい季節であった。なお現地では、イエメンを「イエ~メン」と長く発音する人が多い。

イエメン Map, Yemen
アラビア半島イエメン共和国/面積=日本の約1,5倍

首都サナア(Sanaa サッヌア)は西部地域、緑が少ない標高2,200mの乾燥高地にある。堅固な城壁に囲まれたサナア旧市街には、複雑過多な幾何学文様で装飾された窓枠や壁面に特徴を見る、石膏漆喰で表装された日干しレンガ構造(アドービ: 後述コラム)、イエメン建築様式の高層建物が密集的に建ち並んでいる。首都を訪れたツーリストは、先ずこの特徴的な建物群に圧倒される。
旧市街の広場と狭い路地には「スーク Suq」と呼ばれる賑わう露天市場が展開している(下写真)。その長い歴史と中世オスマン時代から変わらないとされる独特な伝統文化をして、人はこのサナア旧市街を「生きた博物館」と呼び、UNESCOは世界遺産に登録している。

イエメン・サナア旧市街・露天市場スーク Yemen, Men at the Open air market
世界遺産サナア旧市街/イエメン門周辺・「露天市場スーク」の男達/1998年
※ポプラ社書籍・世界の宗教シリーズ・「イスラム教」 掲載写真に採用される(2005年発刊) 
イエメン山岳地方の男達 Yemen, Men on the Small Truck
街で用事を済ませTOYOTAトラックで村へ帰る山岳地方の男達
サナア旧市街の建物群 Sanna, Yemen
サナア旧市街/石膏&泥漆喰表装のイエメン建築様式の建物群・モスク・尖塔ミナレット

露天市場スークでは衣類・靴・香料・食料品・工具・金属品・陶器・薬品・家具・雑貨など・・・日用品ならあらゆる物品が調達でき、乾燥した空気に響く呼込みのダミ声と物色の男達が取引の交渉に忙しい。イスラム世界の多くの地域がそうであるように、商売と家庭の買い物は男の役目、ここサナア旧市街のスークでも売り手も買い手も腰に装飾ナイフ・「ジャンビア」を差し、頭に「イエメン・ターバン」を巻いた男達だけ(下写真)、首都でさえ全身を黒一色や紋様のベール・「チャドル」を被った女達のショッピング風景は稀である(下写真)。

現地では驚きに値することではないが、アルコール飲料が許されていないイエメンの男達にとって毎日必要不可欠な神経興奮作用のある、背丈3mほどに生長するコーヒーと同じアカネ科樹木の新芽である弱麻薬性の「カート Khat/Chat」さえも、スークでは政府公認で取引され誰でも買うことができる。
スークに出かけた男達が妻や娘に頼まれた衣類や靴、羊肉や香辛料より先に手に入れるのは、新鮮な「朝摘みカート」である(下写真)。タクシーや路線バスの運転手、ホテルのフロントマン、商店主やスークの店番の若者、労働者・・・イエメンのあらゆる階層の男達のほっぺが膨れているのは、飴玉を舐めているのではなく、カートの若葉を噛んで左右どちらかのほっぺに溜め込んでいるためである。
お茶の新芽に似た渋いカート葉と唾液がミックスされ有機塩基アルカロイドを生成、350mlのビールを飲んだ程度の弱麻薬性の「酔い」を楽しむのである。
言うならば、この典型的なイスラムの国イエメンのスークでは、中世以来変わらない「男達の世界」が展開されている。かつて北アフリカ・アルジェリアやモロッコ、イランやアフガニスタンでも経験したが、少々危険という未知なリスクが在っても、私はこういう伝統的で活気に溢れワクワクする人々の「生の情景」の舞台に魅了される。

サナア旧市街・スークの情景/男達の世界 Men at the Open air market
男達の世界・スークの情景
上写真: 弱麻薬性の新芽・「朝摘みカート」の取引  
左写真: ティーやコーヒーを提供する路上カフェ   
右写真: 装飾ナイフ・「ジャンビア」を差した精悍な青年
イエメンの女性達 Women, Yemen
左写真: スカーフを被った山岳地方の年配女性
右写真: 黒の「チャドル」を被った首都の女性達

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イエメン砂漠ワディ・ハダラマート大渓谷
※「ハダラマウト」とも呼ばれている
「ワディ」とは?

首都サナアから東方へ直線で約500kmの距離、草木がまったく生息できない砂だけの砂漠と荒涼とした岩砂漠が連なる乾燥エリア、標高500m~1,000m、「ワディ・ハダラマート大渓谷(ハダラマウト) Wadi Hadahramawt」がある。
ワディ Wadi」とは10億年前か、太古の昔に数100年間も続いた地球規模の大雨と大洪水によって岩盤大地が侵食され出来た巨大な渓谷、「枯れた河」を意味している。イエメン砂漠のワディは単純な谷間ではなく、岩盤大地をえぐり裂き、支流ワディと合流しながら蛇行して延々と続く断崖の乾いた大渓谷、多くは幅数km、長さ数10km~数100km、渓谷の深さは200m以上、アメリカ・グランドキャニオンと同じ、途方も無い大スケールである。

国の中央~東部地域を占める広大なイエメン砂漠に点在するほとんどのワディの河床は、平原状の岩砂利と固い乾燥砂地である。その河床の比較的浅い位置に枯れることのない地下水脈があり、それを掘り当てた歴史の中の人々が「オアシス」を形成して来た。また、古くからの主要な道路はほとんど河床平原を走っている。
オアシスの周囲を含め、両脇から河床平原に迫る標高差200m以上の岩崖や尾根稜線に見える頂上が、実はその地域の太古の地表面レベルであり、多くは標高1,000m前後のテーブルマウンテン状のほぼ平坦な地形を呈している(下写真)。
イエメン砂漠の中心都市はサユーン Say’unである。この街を含めたワディ・ハダラマート大渓谷は、無数の支流ワディを連ねたアラビア半島で「最大級のワディ」とされ、その幅は1km~最大8km、本流ワディだけで長さ600km以上、イエメン砂漠から徐々に南東へ向きを変え、岩砂漠地帯で気が遠くなるほど蛇行を繰り返しインド洋へ向かっている。場所にもよるが数十段の階段状に削られた渓谷地層崖の高さは150m~250mほどである(下写真)。

サユーン旧王宮(博物館)/ワディ崖面テーブルマウンテン
左写真: ハダラマート地方の中心地サユーン・白亜の旧王宮(現在 博物館)
右写真: ワディ河床平原から見上げる標高差200mのテーブルマウンテン 

首都サナアからハダラマート地方へのアクセスでは、東方130kmのマーリブ地方 Marib を経由、さらに400kmほど延々と続く砂漠を東方へ横断する陸路がある(トップ地図)。サナア滞在中、私は3,000年前の「シバの女王」が建造したとする古代マーリブ神殿遺跡を訪ねようと申請したが、サナア警察当局から「武装ガイドの同行もない単独行動は絶対無理!」と警告され、許可が下りず、時間的にも断念せざるを得なかった。
1994年に始まった「南北イエメン内戦」の地雷も未処理のまま残り、伝統的に部族紛争の絶えない危険地帯とされる、このマーリブ砂漠地方に日本の外務省は最高危険度を勧告しており、個人ツーリストが簡単に通過や滞在できるルンルン気分のお気楽な観光エリアではない。
別ルートでは、サナアからナショナル・フラッグを掲げるイエメニア航空 Yemenia Airways の国内線でインド洋沿岸の港街アル・ムッカーラ Al Mukalla へフライト、その北側の広大な岩砂漠地帯(道路最標高2,000m)を蛇行縦断しながら、人気のワディ・ドゥアン渓谷 Wadi Dowan を経由、300kmほど北上するアクセス道路もある。
ただ、短期滞在の個人ツーリストにとり最も利便性の高いアクセス手段は、サナアからイエメニア航空のエアバス機を使って、2,800mの滑走路を備えるハダラマート地方の中心地サユーンへ直接フライトするルートである。
外務省・「危険度情報」
2015年11月現在、イエメン全土に「危険度レベル4・退避勧告」を発令中、すべての日本人はイエメンへの渡航禁止、現地からの全員撤退が勧告されている。内戦と治安情勢の悪化から、在イエメン日本大使館は2015年2月に一時閉鎖、湾岸カタールへ移転、さらに2015年5月以降はリアドの在サウジアラビア日本大使館内へ移転、在外公館業務が行なわれている。

オアシス・サユーンへの国内線フライト/大型ナイフと自動小銃は「機内持込品」なのか?

私が利用したイエメニア航空・「サユーン行き」のエアバス機の乗客は100名余り、海外からのツーリストは私と何人かのフランス人とドイツ人だけ、他のほとんどは首都で用事を済ませ、砂漠地方へ戻る地元の人達であった。
飛行機での移動の経験が少ないためか、砂漠地方の幾らかのターバン巻きの男達は腰に大型装飾ナイフ・ジャンビアを差し、更に「カラシニコフAK-47改良型」の自動小銃を「機内持込品」としてフライトしようとしていた。
Wikipedia情報
カラシニコフAK-47型自動小銃/Wikipedia情報

ジャンビアと銃は男の命だ、預ける訳にはいかねえ!
没収ではなく、サユーン到着後に必ずお返ししますから、規則では機内持ち込みが出来ないのです
規則かどうか知らねえが、男の命は一時でも放したくねえ、これがハダラマートの男の流儀だ!
その誇りは理解できますから、ともかくナイフと銃だけは預け荷物としてください
俺達ちゃ、ラクダに乗るにも男の命は放したことはねえ、どうしても預けるのか?
ラクダはともかく、余所の国では、飛行機に乗るにはナイフと銃は持込禁止になっていますので・・・

15分以上も空港スタッフに説得され、ようやくチェックインカウンターで装飾ナイフと銃器本体を預けていたが、荷物引換タグ代わりとしたのか、不思議なことに7.62mm実弾30発入りのバナナ型弾倉は本人に渡されたまま搭乗し、男達は私のシートの直ぐ隣や後方に座った。
男達の幾人かはシートベルトの扱いが出来ず、私が手伝ってやると「オー、そうするのか」と、はにかみながらも納得して笑顔でお礼を述べた。人の価値は外観ではなく、他に対する信頼と尊敬、自身の誠実性で決まる。この丁寧な態度と礼こそが中東で「最も誠実な人々の住む国」、イエメン砂漠の男達の本来の人柄と流儀である。

聞けば、現地の人達の航空券代金は、東京から大阪の距離より短い500 kmの飛行で片道¥4,000相当、私を含む海外からの個人ツーリストが払う¥8,000相当に比べ、ビスケットと飲み物だけの機内サービスは共通、ほかに優遇面がないのにも拘わらず、何故か2倍という大きな料金格差があった。
まあ、ここは「アルッラーの神」の国なのだから、掟(おきて)を知らない余所者は礼をして「旅行者料金 Tourist Price」を納得せねばならない。
また、砂漠地方へ戻る男達は、前後に激しくピッチングするラクダの背で揺られるのは慣れていても、快晴で雲の全くない気流の安定した空間を飛んでいるにも拘わらず、何かフワフワと揺れているように感じるのか、感心する程赤銅色に日焼けした強面の幾らかの男達が、若いアテンダントから渡された「酔止薬」を神妙に飲んでいた。偶然だが「見ては失礼」となる少々意外な場面を見てしまったと思い、信頼と尊敬から私は視線を逸らせた。

目的地サユーン空港に到着すると荷物受取カウンターで「男の命」の装飾ナイフと銃器が本人へ返却され、男達はその場でバナナ型弾倉をガチャガチャと銃器へ装着して肩に掛け、自分のオアシスへ向かう。まあ何ともかなり雑な搭乗システムであり、何時何処で乱射やハイジャック事件が起こっても不思議ではない航空事情である。
お国柄とは言え、「セキュリティ」という単語のもつ緊張感や潜む危険性の意味が別な次元、砂嵐でハダラマート大渓谷の荒野の果てへ飛び去っている。
これは個人ツーリストの私が1998年に目撃したイエメンの日常風景であり、こんなことに一々唇を尖らせて先進国の規則や安全や正義を唱え、大げさに驚きや恐怖心を覚えていたのでは≪アラビアンナイト≫の国を旅する覚悟と資格がない。ここは「誇り高き男達の国」である。

ハダラマート地方の中心地オアシス・サユーン

オアシス・サユーンのシンボル、白亜の旧王宮(現在=博物館/上写真)は、1920年代に建造された豪壮な建物。14世紀末~1967年までこの地方を統治したカティーリ家 Al-Kathiri のサルタンの居城であった。
オアシス市街には数こそ少ないがプチホテルも建ち、比較的モダンな感じを受けるイエメン砂漠ハダラマート地方の経済と交通の要衝となる町である。地図上で言えば、サユーンは国土の東西南北、丁度イエメンの「中心点」付近に位置している(トップ地図)。
市街には小指を立てて食事をする上級ツーリストに見合ったような洒落たレストランなどはなく、食事は住民と同じ飾りっ気のない幾分汚れた食堂で取った。食堂の入口付近にはお客の注文に即対応できる分厚いアルミ製大鍋が強力なガス炎でブォーブォーと熱せられ、直径1mほどの粘土製の球形壺型のパン焼き装置を備えるのが一般的な店構えである。
豪華メニューと言うにはかなり抵抗感を覚える料理の内容は、ほとんどがカレーに似た野菜シチューの中に、ニンニクとタマネギをオリーブ油で炒め、好みの肉、例えばヤギや羊や鶏肉、さらにラクダ肉などの小片と香辛料を投入した味の濃い料理がメインであった。そして、トマトや青菜など砂漠で栽培される貴重な野菜を刻んだ小皿サラダである(下写真)。
価格は極めて安く一皿¥100~¥150相当、球形壺形装置で焼く塩味が効いた砂漠特有の膨れていない薄っぺらなパン、炭酸ガスが抜けてしまったギンギンに冷えた砂糖水の「イエメン・コーラ」をオーダーして合計¥250相当(1998年)である。湿度0%の極乾燥の元、予想外にオアシスの地元メニューはどれも美味である。

イスラム教の教義が生活や社会の隅々まで浸透され、徹底されているイエメンでは、女達は育児と家事と畑仕事に従事していた。買い物も含め人目に触れるオアシス市街の殆ど全ての仕事は、正方形の綿布を半折して三角形を作り、さっと頭に巻き付ける「イエメン・ターバン」の男達の役目であり、食堂では調理もサービス係もすべてオジサンと若者で編成されていた。
私もスークで白黒文様のターバン布を買い、行き付けの食堂の10代後半のお兄ちゃん達に「しっかり巻いてよ、Tokyo!」と、笑いと好意の指南を受けながらも、2時間かけて20種以上あるというターバンの基本の巻き方を習得した。
そうして直射60℃の熱風の中、お兄ちゃん達も感心するほどキュッとターバンを巻いた私は、≪アラビアのローレンス≫ならぬ≪イエメンの legend ej≫となり、胸張って酷暑のオアシス市街を歩き回った。

オアシス食堂/露天市場
左写真: オアシス食堂の定番メニュー/肉入りシチュー&サラダ
右写真: 露天市場・インド洋産サワラかサメ類の干物     
ナツメヤシの林/ナツメヤシの実
左写真: サユーン周辺の給水ナツメヤシの林 
右写真: 露天市場で売られているナツメヤシの実

首都サナアに比べたなら、ハダラマート地方サユーンにあるスークの規模は小粒だが、高級な電化製品などを除き、食料品や雑貨など日用品に関してはほとんどの物が入手できる。ミネラル水やビスケット類を初め、オリーブ油やジャガイモ、周辺のオアシスで栽培されたナツメヤシの実(上写真)、熱射で葉が若干固い青菜類、羊やラクダの肉、紅茶やコーヒーや多種の香辛料、更には遠いインド洋沿岸アル・ムッカーラ地方で捕れたサワラの仲間か小型のサメ類か、塩味の効いた魚の干物も販売されていた(上写真)。
また、サユーンの周囲には、ワディ河床から大型ポンプで汲み上げる地下水が供給されたナツメヤシ林が広がり、わずかだが緑の耕作地もある(上写真)。ナツメヤシの実はこの地方の最重要な農産物で、そのほか厚い表皮のトマトや濃厚味のブドウ(1kg=\150相当)や豆類なども栽培され、オアシス市街を含め周辺ではラクダだけでなくヤギも数多く飼育されていた。これらはスークで取引され、オアシス住民や砂漠で生きる人達に供給されている。

オアシス市街の路地に建つプチホテルに宿泊した。湾岸カタールからの国際放送も受信できる旧式だがCRTテレビでは、毎日、夕方になると黒い瞳のキレイなお天気お姉さんが、「ペルシャ湾からサウジアラビアは43℃、オマーンからイエメンの砂漠地方では、明日も45℃以上になるでしょう」と、決まり事のように平然と解説していた。
これが真夏の中東諸国の日常であり、体温を10℃も超えた熱射の気温が取り立てたニュースになる訳でもなく、気象予報士から大げさに高温警報が出されることはない。真夏の中東では、当然だが、テレビの予報モニタ画面には気温45℃の「快晴マーク」だけ、天が逆さになっても「雨マーク」は絶対!に現われない。
お天気お姉さんの予報どおり、毎日が湿度0%、何もかも加熱してしまう直射60℃、日陰で45℃の超高温、朝5時になってもホテルの部屋の壁は熱気を帯びていた。ガタガタ音の激しいエアコンを止め、暫くして室内温度を測ると35℃であった。
日本の基準とまったく違う、25℃の寝苦しい「熱帯夜」ではなく、一晩中、35℃の「酷暑夜」と言える。Tシャツを洗濯し、シャワー室に干すと15分で着られる状態に乾いてしまう程、空気は飽くまでも極乾燥していた。水道管が地中深く敷設していないためか、夕方、ホテルの水道水はシャワーには熱過ぎる45℃のお湯となる。

歴史あるオアシス・タリムへ

サユーンから、広大なワディの河床平原を走る平坦なアスファルト道路から見る限り、周りの風景は崖面と河床と青い空だけが続き、高さ250mを保つかつての地表面であった山のような稜線斜面には、数十段もの地層をはっきりと見ることができる。
荒涼という言葉以外に、草木のないこの雄大な風景を端的に表現する方法が見つからない中、大きく蛇行するように河床道路がワディの奥地オアシス・タリム Tarim、そして、道路はさらに支流ワディと合流、標高550mの河床オアシス・アッシム Assium から一気に標高1,000mの不毛の岩砂漠へ入り、東方へ550kmほど横断して産油国オマーンとの国境の砂漠地帯へと続いている。
サユーンからアルグラフ Alghuraf など幾らかの比較的小さなオアシスをバイバスしながら40分ほど走ると、幅の広い本流ワディが支流ワディと合流するような広大な場所に出る。サユーンの北北東35km付近、大規模な給水ナツメヤシ林に囲まれたオアシス・タリムが見えてきた(トップ地図)。

イエメン・タリム旧市街 Tarim, Yemen
オアシス・タリム旧市街の街並み

オアシス・タリムの町は太古の大洪水で岩盤が削られたワディ・ハダラマート大渓谷の河床平原の中で発展して来た。テーブルマウンテンの崖壁下とも言えるオアシス旧市街には住宅が密集し、その郊外となる南~東~北側、ワディの中央部付近にはナツメヤシ林が整然と緑のパターンを描き、典型的なイエメン砂漠のワディ・オアシス風景を見せている。
オアシス旧市街区域には、15世紀にタリムを治めた Omar Al-Muhdar に名を由来する、1914年建立、高さ46mを誇る尖塔ミナレットのアル・ムフダール・モスク Al Muhdhar など、何か所ものイスラム教のモスク寺院の高い尖塔が見える(上写真)。
紀元7世紀に生まれたイスラム教がアラビア砂漠を経由して、比較的早い段階でハダラマート地方へ伝った。結果、かつて中世イスラムの時代のタリムは宗教センターの役割を果たし、街には150を超えるモクス寺院や神学校などが建造され、オアシス・タリムは繁栄したイエメン砂漠地方のスンニ派の「信仰の都」であったと言う。
また、サナアなど西部の山岳地方との関わりも少なく、砂漠で占められたハダラマート地方はイエメン国内でも独自な歴史と文化を育んだ。その中心地でもあったこのタリムの町から、活躍する多くのイスラム神学・法学者を初め、天文学や幾何学や数学、文学や哲学や論理学、錬金術(化学)や医学・薬学などの知識人、占星術師、莫大な富を生む有力交易商人などが輩出された。その点では、中世のタリムは「学問の都」でもあった。

遠方から見るオアシス旧市街の家々は、ほぼすべてが直線的で方形の形容、大小の建物がびっしりと建ち並び、自由開発が許された密集都市の様相である。
しかし、比較的大きな建造物であるイスラム教モスク寺院や役所、一部の高層建物を除き、オアシス旧市街の人々の住宅などは全て厚い壁状に積み上げた日干しレンガ造り、泥漆喰の表層仕上げの「アドービ建築様式」である(下写真)。また、旧市街の東西のワディ平原には新市街が拡張されつつあり、新市街の郊外には灼熱の炎天下、日干しレンガを造る露天の作業場が活況している。
日干しレンガ(煉瓦)/アドービレンガ
乾燥した草類やナツメヤシ葉、時には防虫用のラクダ糞など有機物を添加した砂質粘土を混錬、それを横30cm~35cmほど、縦25cm前後の木枠で長方体に成形、天日干しと日陰干しで完成させるレンガ材(煉瓦)。古くから乾燥地域で用いられて来た重要な建築素材で「アドービレンガ」とも言われている。粘土に稲ワラを添加した伝統的な日本の「土壁」に共通する性質と機能がある。
日干しレンガの壁面は予想外の建築耐久性に優れ、熱の吸収が良好で伝導が遅延する性質があり、アフリカ・サハラ砂漠周辺~地中海沿岸~中東~南アジア地域、中南米~南米アンデスなど、特に高温で乾燥した地域の伝統的な建築様式に採用され、真夏でも建物内部は涼しく、反対に冬は比較的暖かいという特徴がある。
オアシス地域では同質の粘土で、都市部では石膏漆喰で表装して美しく仕上げる場合もあり、後述の「世界遺産シバーム」のように、外観は高層の鉄筋コンクリート構造物に見劣りしない。

オアシス・タリム旧市街の街並み Tarim, Yemen
オアシス・タリム旧市街の街並み

主要なモスク寺院の入口付近には、オアシスの住民のために2種の水道設備、先ず外気でお湯状態になった水の出る手洗専用蛇口、そして常時唸りを上げ冷却装置で冷やした水の出る飲料用蛇口があり、外で遊ぶ子供達や働いている大人達、モスク寺院へやって来る信仰の人々が、常時自由に喉を潤すことができる。
また、大勢の人々が集まるモスク寺院にはトイレ設備が完備されていた。私の知る限り、首都サナアも含め、この国イエメンの町では公衆トイレの設備がほとんど無いに等しく、海外からのツーリスト、特に女性はその点かなり苦労することになる。
しかし、都市だけでなく、どんな小さなオアシスでも、必ず中心部に存在するモスク寺院にはトイレ設備があり、信仰の人々は先ずトイレで不浄物を排泄、砂や泥や埃などで汚れた顔や手足を丁寧に洗い清めた後、靴を脱ぎ、イスラム信仰の空間であるモスク寺院内部へと向かう。

高台からオアシス・タリム旧市街を眺める

オアシス旧市街の中心部から周囲を見渡し、足で登れる崖斜面か見晴らしの利く高台を探した。イエメンを訪ねる以前から、ハダラマート地方のオアシス・タリムでは、少しでも高い場所から街を眺めてみたい、と長い間考えていたからである。
直射60℃、灼熱のイエメン砂漠の太陽が容赦なく照り付けてくる。ただ単に暑いではなく、どうしょうもなく過激に熱く、頭がクラクラし、目が回るような朦朧とした感覚を覚える。余計なことを考えないように勤めるが、汗の蒸発から血液がドロドロとなり脳が酸素不足に陥ったか、目眩とギンギンとした頭痛も始まり、思考が酷く散漫となり、明らかに集中力が急激に低下してきたことが分かる。それにしても熱い・・・
オアシス旧市街には誰も居ない。住民が「存在しない」ではなく、真夏の昼過ぎ、最も熱いこの時刻には誰も外で働かず、誰も市街を歩かないのである。ただ、こちらは持ち時間の限られた東洋からの個人ツーリスト、誰かに崖斜面へのルートを聞かなければならない。
しかし、すべての人は幾分涼しい屋内に篭もり、長い舌を突き出したイヌもギラギラした眼をしたヤギも、熱さに強いはずのラクダさえも建物の裏側やナツメヤシの木陰で休んでいる。全ての生き物が休息してオアシスは死んだように静まり返っている。

気が付くと、5、6歳の兄妹と思える裸足の誠実そうな子供二人が、私の後ろに静かに付いて来た。当然彼らは英語を理解できないが、「崖に登れる?」と身振りで問うと、二人は黙って私の先を歩き始める。「多分大丈夫、何とかなるだろう」と期待をして、私は彼らに従いオアシスの狭い砂の路地を崖斜面へ向って歩いて行く。
家並みが切れた所で立ち止まった兄妹は、それより先の登坂ルートを黙って指差した。案内のお礼に¥10相当分の硬貨を2枚差し出すと、汚れた小さな手をそっと伸ばし笑顔で受け取り、足早に駆け出し、日干しレンガ造りの家々に挟まれた乾いた砂の路地へ消えて行った。再び辺りはオアシスの静寂に包まれた。

イエメンの子供達 Children, Yemen
イエメンの子供達/誠実で明るく 多くの子供達が買い物や店番などで働いている

空気が極端に乾燥しているため、汗は全くかかない。目には見えないが、流れ出たはずの塩分を含んだ多量の汗は瞬間的に気化してしまい、乾いた肌をなめると残留した塩分の強い味がした。
遠方から見た時、「簡単に登れるだろう」と予想した崖斜面への登坂ルートはかなりの急勾配、人の頭程の大きさの岩石を含む砂利混じりの土砂で占められていた。それが極乾燥で焼き付いたようにガチガチに固められているため、斜面は崩れることはないが、歩き難いガレ場の連続である。崖斜面を登るにつれて、見晴らしが利いて来た。喉の渇きが極端であまりに熱い、どうしようもなく熱く、耐え難い猛烈な熱さである。目に映るすべての光景が陽炎(かげろう)のように揺れている。
15分程で崖斜面の中腹まで登ったが、熱さのためか、とうとう「これ以上登っても意味があるか?」という弱虫精神が芽生えてしまい、斜面中腹で登坂を断念する。耐え難い熱波で思考力や積極姿勢が衰えてきたのだ。

崖斜面の中腹にある展望の利く岩盤テラスを見付け休憩することにした。オアシス・タリム旧市街のほぼ全様が手に取るように見渡せる、夢の中で偶然に出現したような絶好の場所である。
熱く、あまりの喉の渇きから、5分毎にPETボトルのミネラル水を飲んだ。口を開けると乾いた熱波が入り込み、一瞬にして口の中全体と咽の奥までも乾き、尚も水を飲まなければならない。拷問にも似たこの過激な熱風と水飲みの悪循環、連続的に「ああもうダメだ、水飲もう・・・」の独り言を言い弱虫の情けない心境に陥って行く・・・

強烈な日差し60℃ 岩陰で47℃

大きな岩陰で休憩し、何とか写真を撮り、再び休憩した。幾分風があったが、それは日本で考えている涼しい風ではなく、強烈な日差しにより熱せられた超熱風で、それを顔面で受ける度にスキー用の濃厚UVサングラスに隠れた目を細めなければならなかった。岩陰で温度を測ったが、カタール放送局のお天気お姉さんの予報より高く、デジタル温度計は何と「47℃」を表示した。
この猛烈な熱さは、例えるなら、日本で30℃以上の夏祭りの日、蒸し暑い昼下がりに丸太を組み上げ大規模に神事の焚き火を燃やし、それを取り囲み何時間も平然と過ごすのと同じ位、耐え難い状態であろうと想像した。しかも祭りで神職が執り行う5分とか10分の短時間な儀式の間ではなく、陽が沈むまで終日焚き火に5mの距離で対面し続けるのと同等である。

崖斜面にできた岩盤テラスから乾いた静かなオアシス・タリム旧市街の街並みを長い時間ぼ~と眺めていた。対応する意欲と考えることを退化させる激烈な高温の世界に身を曝し、独り黙って47℃の岩陰に身を潜め、持参したミネラル水を飲み続け、濃厚サングラスの中で目を細める。熱中症寸前の朦朧とした意識で眺めるオアシス・タリム旧市街の雑然としながらも、日干しレンガの家々の建ち並ぶ幾何学模様は、私にとって心に刻む遥かなる「時」であった。
この褐色の色彩と直射60℃の眩しい強烈な印象は、生涯私の記憶域から消えることはないであろう。これは正真正銘、二度と体験できない「人生の眺め」なのだ、と辛うじて自分へ激を飛ばしながら、乾きに我慢できずに抱え込んだミネラル水のPETボトルのキャップを開ける・・・

私が育ったのは埼玉県北西部、2007年8月、「国内最高気温40.9℃」を観測した熊谷市のわずかに西方である。子供の頃から夏の暑さと毎夕の雷鳴には絶対的な対応力があると自負して来たし、過去にアルジェリア・サハラ砂漠や酷暑のインドへの旅などからして、熱さを初めとする厳しい自然条件はある程度予期していたが、実際のタリムの極乾燥と超高温は私の想像を遥かに超えていた。
この時、岩陰で測定した「気温47℃」が、結果的には私がイエメン滞在中で経験した最も高い気温となった。今後、私が人生の終焉を迎えるまでの間、この「人生の最高気温47℃」を超える熱い経験は、間違いなく二度とないことであろう。

下方のオアシス旧市街では誰も、何処にでもかなりの数がいるはずの野犬を含め、何物も動くものはなく、市街は死んだような静寂感だ。音もなくただ熱波の砂漠の風だけがわずかに流れ、全ての物体を容赦なく熱している。岩の丘や断崖の地層も、砂の積もった狭い路地も、日干しレンガ造りの家々も、ナツメヤシの林も、ヒビ割れたアスファルト道路も、何もかも50℃近い熱風に晒されている。
体温を10℃以上も超えた外気温に冒された私の身体は確実に火照って来た。左頬が赤くなり、火傷のように腫れ上がって来た。カメラ自体や装填するフィルム・パトローネも完全に使用環境の限度を超え始めてきた。事実、帰国後、現像した砂漠地方で撮影したリバーサルフィルムの殆ど全てに、薄紫色のベールがかかっていた。高温による熱感光が起こり、撮影前からフィルム面の色彩粒子に異常が発生していたと考えられる。

5分毎に飲み続けたミネラル水が見る見る内に減少して来た。それでも水を飲み続ける。「こんな状況で水飲みを我慢しても、根性があるとは思えない・・・」などと勝手な理屈を唱え、自分に有利な楽に生きる策だけを優先する短絡思考、なおもお湯のように熱くなったミネラル水のボトルへ手が伸びる。
出ているが瞬時に気化してしまうことから汗を全くかかない中、結局、オアシス・タリム旧市街の崖斜面に登ったこの日、ホテルの朝の起床~タリムで過ごした昼間~就寝までの間に飲み続けたミネラル水は「合計5リットル」。日本では到底考えられない極めて大量の水を飲んだのである。
しかし、出した小便は朝昼晩のたった3回、しかも透明感ある美しいブランデー色と化して膀胱から排出される濃厚な残り液は、自分でも心配してしまう位少量であった。この異常と言える代謝と汗の蒸発と少ない小便回数も、イエメン滞在で初めて経験した自分の体調の不思議な現象であった。

かつて若い頃、私は「東京~伊勢志摩~奈良~京都~箱根峠~東京」、33日間1,300km(日平均40km)を歩き通した辛い経験があった。その後、1998年、中東イエメンへ出発する前に、毎週、土曜日に30km~40kmのかなりきつい「ウォーキング訓練」を行って来た。
花の咲き始めた早春に、房総半島の先端の館山から歩き始め、東京湾を北上して千葉から都内へ、そして横浜・横須賀・三浦半島へと左回りで「東京湾一周」を完歩した。その後、蒸し暑い初夏になり、三浦半島から鎌倉・小田原・熱海を経由し伊豆下田まで、企業勤務の合間、週に一度の細切れのつなぎ合わせであったが黙々と歩き通した。
その結果、自身ではそれなりの体力の蓄積が出来ていたと自負していた。それにも拘わらず、このオアシス・タリムの熱射の下では、その溜め込んだ余剰力がまったく効果を発揮できないまま、ギンギンとする頭痛を感じながら、私はただ黙って連続的にミネラル水を飲み続け、灼熱地獄と化したイエメン砂漠の50℃の熱風に曝されているだけであった・・・

世界遺産イエメン砂漠の「摩天楼」/オアシス・シバーム

城壁都市・オアシス・シバーム旧市街

ハダラマート地方の中心地サユーンのスーク脇で交渉したエアコンのないガタガタ・タクシーに揺られ、西方20kmのオアシス・シバーム Shibam へ向かった(トップ地図)。
大規模オアシス・シバームは、大自然の名残、太古の昔に起こった大洪水の爪痕、巨大な渓谷ワディ・ハダラマートの河床平原の中、紀元3世紀頃から人々がオアシス居住を始め、その後、城壁に囲まれた「ハダラマート王国」の都となり、繁栄を享受してきた。その歴史の中で地下水が涸れたことがなく、それ故に砂漠という厳しい自然環境にあっても、シバームは長い間イエメン砂漠の重要な交易オアシスとしての役目を果たして来た。
河床平原の彼方から城壁に囲まれたシバーム旧市街を眺める時、陽炎に揺れる高層ビルが林立する「一大近代都市」を見るような錯覚を覚える。しかし、ほんの一部を除き、街の建物の殆ど全ては長い歴史の中で日干しレンガを一つずつ高層に積み上げ完成された、正に手造りの「泥の大型建造物群」と言える。
シバームの旧オアシス区域は、東西400m 南北270mほどの城壁に囲まれた「長方形」の形容、その面積は東京ドームの約2,3倍となる。現在では旧市街の外側にシバーム新市街が広がり、特に旧市街から見て、ワディの北側~西側一帯には管理給水されたナツメヤシの林が広く点在する。

城壁の旧オアシス区域には、歪んでいる家や今にも崩れそうな建物、色々なデザインの建造物の巨大な集合体がびっしりと建ち並び、その数400棟とも、500棟とも言われ、それらが殆ど5階から8階建てであることを考えると圧倒される思いがする。
厳しい環境の中にあって、この世にも希な建築様式を数百年の間放棄することのなかったシバームの文化とも言える繁栄の歴史と伝統的な砂漠の生活全体を含め、UNESCOはこの城壁の旧市街を世界遺産(歴史文化部門)に登録している。また、オアシス・シバーム旧市街は古くからハダラマート地方の人々に「イエメン砂漠の摩天楼」と呼ばれている(下写真)。

世界遺産オアシス・シバーム Shibam, Yemen
ハダラマート地方の世界遺産・「砂漠の摩天楼」 オアシス・シバーム

私が訪ねた真夏の8月、当然のことだが、ワディ・ハダラマート大渓谷は雲一つない完璧な快晴である。全ての物体は乾燥した空気の触れ、日の出と共に気温はぐんぐん上昇、シバームの昼過ぎの時間帯の気温は、タリムよりわずかに低く岩陰で「45℃」であった。目に映るすべての光景が陽炎のように揺れ、陽光の直射温度は間違いなく55℃を遥かに越えているはずである。
旧市街の南側、崖斜面の中腹まで登り、振り返って眺める世界遺産オアシス・シバームの景観は、密集的に日干しレンガ造りの家々が建ち並び褐色に染まったオアシス・タリムとは異なり、標高2,000m級の険しい岩の山々が連なるイエメン西部地域の山岳民族の住む、「モカ・マタリ・コーヒー」の産地、茶系石灰岩と砂岩の割り石だけを積み上げた標高2,600mハジャラ村 Al Hajjara の高層建物群に共通するような気がする(下写真)。

イエメン山岳地方・ハジャラ村/石積み構造の建物群 Al Hajjara, Yemen
イエメン西部地域・標高2,600m 山岳民族の住むハジャラ村/イエメン建築様式の石積み造りの建物群

城壁に囲まれた「イエメン砂漠の摩天楼」、シバーム旧市街では高層の建物一棟が一家族分か複数親族分、おおむね2階以上が家族の住まい用として使われている(下写真)。洗濯物がひらめく家々の屋上同士は泥の連絡通路で迷路のように結ばれ、外敵の攻撃があっても互いにいつでも避難できる複雑な構造である。
また、伝統的なデザインなのか、入口ドアーはどう見ても強固すぎる異様に大型の鍵が備え付けられ、どの住宅も通りや路地から建物内部や内庭を覗くことも、増しては侵入することもできない。
アラビア半島で最大級のワディ・ハダラマート大渓谷の広大な河床平原のど真ん中、要塞化された都市国家のようなオアシス・シバーム旧市街、この歴史ある古いオアシスを眺めていると、その建物の存在、そして構造と建築技術に驚きを覚えるのは当然である。
異民族や他の部族の襲撃に備え強固な城壁を設け、その中の狭いエリアで伝統的な砂漠での厳しい生活を営む人々の歴史と繁栄を考える時、こんな苛酷な自然条件下であっても人は生きて行くのであり、人々の忍耐力と試練、希望を捨てない強い意志と誇り、闘いに負けない不動の精神を尊敬を込めて賞賛せざるを得ない。

イエメン砂漠地方・オアシス・シバーム Shibam, Yemen
オアシス・シバーム旧市街・日干しレンガ造りの建物/イエメン砂漠地方

それにしても、ハダラマート地方の城壁都市シバームも熱い。水と緑に恵まれた東洋の平和な国のように、猛暑と熱中症で病院へ搬送される人が出ると大騒ぎとなり、ニュースや天気番組ではお決まりの「猛暑日なので小まめに水分摂取、外出には注意しましょう!」とかの啓蒙の警報を流すのとは大きな違いだ。しかも真夏の東京では多かだか35℃の、言ってしまえばシバームのそれに比べたら、10℃も低い「涼し過ぎる気温」である。
オアシス・タリムやシバームなどイエメン砂漠地方の真夏では、毎日が外気温60℃でも誰も驚かないし、ましては時速4kmで歩くラクダはたくさん飼われているが、熱射で倒れた人を搬送する救急車などは存在しない。ここでは岩陰でさえも45℃以上の耐え難い日々が続き、たとえ熱射で倒れた人が出ようとも当局はお構いなしである。何故ならば、「自分の生命は自身で守る」という、イエメン砂漠で生きるための厳しい掟(おきて)が、誰にでも平等に絶対的に科されている。
だから、何事にも「ワアア~ カワイ~ キレ~イ」を口癖連発する東洋の国のフニャフニャ単細胞のデリケートなアマチュア人種とは異なり、イエメン砂漠のすべての人々は、子供から高齢者まで外気温60℃でも誰もが熱中症にも縁遠く、厳しい大自然に立ち向かう「生きる術」を知っている。

イエメン砂漠の厳しい大自然と「感動物語」

イエメン砂漠の辞書にない言葉/「四季」・「自然の恵み」

東洋の日本には世界に誇れる美しい季節の移ろい、明確な彩りの「四季」がある。地球の温暖化傾向から最近はわずかに気温上昇が続いているが、それでも日本はアジア温帯気候帯に属している。この日本で認可された社会科の教科書に必ず記述される「自然の恵み」などという崇高で美しい響きの言葉を、ここイエメン砂漠で生き抜く子供達は誰も知らない。大人とて自分達の伝統を秘めた「イスラム科学」の辞書の中で、この言葉・「自然の恵み」を探し出せない。
この地、ワディ・ハダラマート大渓谷地方では、薄紅色の桜のような美しい花を見る機会など皆無に等しく、極乾燥や容赦のない熱射、生物の生息が難しい砂と岩だらけの砂漠や激しい砂嵐が大自然そのものである。が、それらはこの地で生き抜く人間へ「自然の恵み」をもたらすことはあり得ない。イエメンの砂漠地方の人々にとり、大自然は毎日「生存と死」が紙一重という環境で生き続けるための過酷な闘いの相手であり、運命であり、非常なる恐れでもある。
東洋の国では、安心と豊穣を約束するような美しい言葉・「自然の恵み」をもたらす太陽は、畏敬の「神」にも匹敵する崇める対象であるが、このイエメン砂漠の太陽は、隙があるなら人々の生存を脅かし、生命を奪うことさえあり得る敵対する危険な対象であり、神的要素のない宇宙物理学の単なる「光源」と言える。
イエメン砂漠の「神」は唯一「アルッラーの神」であり、砂漠の人々を救えるのは「アルッラーの神」だけであり、太陽も星も、広大な砂漠も荒涼たるワディも、人もラクダも、岩の下に潜むサソリや毒虫も、ナツメヤシも、すべて「アルッラーの神」に支配された単なる物質である。

夕陽は灼熱の「火の球体」/起り得ない夕方の「茜色」

42年前の1973年、かつて若かった私はサハラ砂漠のど真ん中、砂丘を単独で旅している時、「アルジェリア独立戦争」以降、増強されたアルジェリア政府軍MPパトロールに「スパイ」の疑いで拘束連行された苦い経験がある。
あのサハラ砂漠で見たのと同様に、夕方、極乾燥のイエメン砂漠・ハダラマート地方で見る太陽は、日本なら子供の頃から誰もが描いてきたピカピカと放射状に輝く美しい光線もなければ、周りに三角形の黄金色の発光帯もない。
ハダラマート地方の夕陽は、高温の溶鉱炉から出た溶解銑鉄か、線香花火の玉のように、真っ赤より少し朱色を混ぜた、今まで見たこともないほどの異様とも言える純色を放す巨大な「火の球体」と言って良い。
それは誰が見ても輝いている神的な太陽とは到底言えず、ただ遠い空間に浮いた想像を絶する永遠に燃え続ける高温の赤い巨大球体という感覚だ。ハダラマート大渓谷の荒涼たる地に立ち、日没を一人で眺めていると、心にしみるもの哀しい感傷ではなく、むしろSF物語の恐ろしい「怪奇現象」を見ているような、身震いを伴う異質な観を覚える。
さらに日本には夕方の「茜色(あかねいろ)」という抒情詩的で美しい癒しの言葉がある。しかし、砂漠地方の夕方の西の空には、こんな良家のお嬢様が好んで使うようなお上品な言葉や雰囲気はまったく存在しない。雲も湿気もない乾燥した大気と地平線の彼方に、ピカピカ光ることのない、ただ赤く発色するだけの真ん丸い火の球体がスーと音もなく消えて行くのだ。その直後、高温の球体が空を美しい茜色に染めることはない。

真夏の夕方、すべての物体を容赦なく熱射した赤い巨大球体が、ようやく西の彼方へ隠れた直後、砂漠の人々は一時的ではあるが安らぎの心境になるはずだ。敵対する大自然の火の球体は、暗闇という半日の時間を経過して、翌朝目覚めた時には再び東の地平線に確実に現れ、前日とまったく同じに熱射60℃を人々に浴びせて来るのである。これは人と大自然との闘いである。
昼と夜の境目には、夕焼けの美しい色彩も感傷的な雰囲気もなく、多くの生物が頼りにする光源の役目を果たした火の球体が地平に沈むという、宇宙の普遍の大法則が厳格に遂行された後、明るさを反射する雲や水蒸気がないため茜色の空は出現せず、間髪入れずに暗闇が一気に押し寄せる。
そうして極乾燥の砂漠では主役の入れ代わりが起こり、突然のごとく満天に輝く銀河の世界が出現するのだ。東洋ではあり得る30分前後の夕焼けの感動的な美しい時間帯がここでは成立しないことから、日没から暗闇、そして銀河の洪水へと、舞台が音もなくドラマティックに正確に変化して行く。
「刻一刻」と言う、幾分スローで叙情的な表現ではなく、「1/100秒刻み」でアッと言う間に変化して行く。観衆が誰も居ない舞台なのに、毎日、規則正しく熱射の太陽と暗闇の世界がアールタネイトするだけである・・・

天空は魔術師なのか?/有り得ない数の☆☆☆・・・

多くの人が砂漠に滞在して初めて知ることになるが、星座は地平線の彼方でも、自身の立つ真上の天空でも、まったく同じ照度で純粋な光を放すものという、湿気の多い東洋の日本では想像もできない不思議な現象に魅了される。そして、誰もがプラネタリウムで観るより、さらに大きく信じられない数の星と星雲が、膨大な量の発光ガラスの微小球体となって、頭上から地上のすべての物へ挑むかの如く、一斉に降って来るかのような神秘的で少々怖くなるほどの精緻で美的な錯覚に囚われる。
それは、直径35mの世界最大級のドームを誇る「名古屋市科学館 Brother Earth」、あるいは1億4,000万個の恒星を高輝度LEDで投影することで有名な、世界一最先進的プラネタリウムとされる「多摩六都科学館・オーロラの調べ」で見る天井描写など、言うのはたいへん失礼なことだが、「ほんの子供だまし」となってしまう。

そして、まるで大自然の驚異や神秘なる世界を得意とする「ディスカバリー・チャンネル」のドキュメンタリー・プログラムか、地上600km上空でハッブル宇宙望遠鏡が捉えた宇宙の彼方に存在する星雲の映像が、衛星チャンネルやサイエンス雑誌の印刷写真ではなく、現実に自分の頭上に広がる天空と言う巨大ドームに超鮮明に、しかも超高密度で映し出されているような大迫力である。
輝く星が想像を絶するほどの数で明瞭に出現することで、「オリオン座」とか「カシオペア座」など、いわゆる星座を構成する比較的大き目の星が、果たしてどの星なのか判断に迷うという現象が起り得る。もはや点と線で目立つ星を結ぶ特定の星座にまつわる占星術のロマンティックな感覚は消え失せ、「大自然の驚異」と言える天空を飾る発光ガラス球体の圧倒的な数量に唖然として発する言葉さえも失うほどだ。

ワディ・ハダラマート大渓谷で見る銀河の明るさは、現実に本が読めそうな極端に明るい照度である。しかも大気に湿気が多く含まれる日本なら、ほとんどすべての星が光の波長のためか、瞬間的に光が強弱のタイムラグ、あるいはパルス現象を起こすためか「キラキラ」と輝いているように見える。
しかし、発光ガラスの微小球体と言える砂漠で見る星は、「キラキラ」のパルス光波を放すのではなく、消えることのない強力な黄金色のLEDランプの如く、音を立てずに何時までもずーと光りっ放しの状態である。と言っても、日本人の薄っぺらな理科の基本知識の範疇を優に超えた、この砂漠の夜の心揺るがす不思議な天空現象は、実際に現地に滞在した人のみが理解できることなのだが・・・

これは日中60℃の熱射を耐え抜いた人だけが、30℃以上も気温が急下降する夜半になり、ようやく大自然のご褒美(ほうび)として、有り難く頂戴できる特権の「感動物語」と言えるだろう。ハダラマート砂漠地方では「自然の恵み」という言葉を聞くことはないが、「大自然の驚異」は間違いなく存在する。
故に過激に言ってしまえば、熱射の後、「天空の魔術師」が創り出す、一転して出現するこの満天の星と星座が乱舞する美しく神秘的な銀河の「天井絵巻」を知らずして、知ったかぶりして一体イエメン砂漠の「何」を語れるか? ましてはプラネタリウムで天空に近似するデジタル星空を見せられている日本の社会で、圧倒される本物の星空の話などできるであろうか?
その上で、宇宙の永遠の彼方へ響くほどの心地良い、うねる様なリズム感の中東ベリーダンス音楽、Maroon Shaker が奏でる≪Sealed Book≫、あるいは首都サナア近郊のワディ・ダハール大渓谷 Wadi Dhar の河床平原に建つ旧宮殿(下写真)を称える Iskelu の≪Dar Al Hajar ロックパレス≫などを、ここハダラマート地方で星空を眺めながら、誰も居ない砂漠の夜に聞くならば、それこそ幻覚の世界へ誘惑されてしまうほどの幸福感に包まれることであろう・・・

イエメン・ワディ・ダハール大渓谷・「ロックパレス」イエメン・ワディ・ダハール大渓谷・「ロックパレス」 Wadi Dhar, Yemen
サナア近郊ワディ・ダハール大渓谷・「ロックパレス(岩の旧宮殿)」

●関連Webページ: 灼熱の砂漠と山岳高地 3,000年の歴史と誠実なる人々の住むアラビア半島・イエメン
●関連Webサイト: 海外旅行1,200日・世界47か国 旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」
legend ej の世界紀行
●過去のブログ:
イエメン: イエメン砂漠/ワディ・ハダラマート大峡谷/夏 熱射60℃ 灼熱の世界
イタリア: 「花の都・フローレンス」で観たボッティチェリ作・フレスコ画≪受胎告知≫
       世界遺産・北イタリア・ドロミテ山塊/大自然の造形美 「雄大なる讃歌」
ギリシア: ミノア王妃の「世界最古のお風呂」と水洗トイレ/クレタ島クノッソス宮殿遺跡
       クレタ島クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画≪パリジェンヌ≫は女神だったのか?
スペイン: ラ・マンチャの乾いた風/コンスエグラとカンポ・デ・クリプターナの風車の丘
フランス: 夏 ラベンダーの花咲く季節/南仏プロヴァンス地方セナンク修道院
       花のある風景/アルザス・ワイン街道・コロンバージュ様式の美しい家並み
       南西フランス・ケルシー地方・「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー
       「フランスの最も美しい村」ゴルド/南仏プロヴァンスの「極上の美しい眺め」
南アフリカ: ジャカランダの花咲く南アフリカ・プレトリア/「花の魔術」のナマクアランド地方
EU諸国: ヨーロッパの「最も美しい街」は? 経験論からⅠ部(北欧~中欧~東欧)

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