legend ej の繧繝彩色な「物語」: 南西フランス・ケルシー地方・「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー

2015年10月16日金曜日

南西フランス・ケルシー地方・「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー

「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー Saint-Cirq-Lapopie

「コッス・デ・ケルシー地方自然公園 Causses de Quercy」に組み込まれた人口220人、斜面に住宅が密集する本当に小さな村サン・シル・ラポピーは、「フランスの最も美しい村」である同時に、ミディピレネー地方観光局が推奨する「ベスト景勝地 Grands Sites(25か所)」にも認定されている。また、フランスのテレビ局F2の調査では、サン・シル・ラポピーは「フランス人の最も好きな村」として最上位ランク(2012年)されている。
美しい村サン・シル・ラポピーへの行き方、特に個人ツーリストの場合、鉄道路線もなく、交通アクセスはかなり「難がある」と言わざるを得ない。しかし、データが語る事実は、サン・シル・ラポピーはフランス人のみならず海外からも含め、年間40万人が訪れる絶大人気のツーリスト・スポットである。
ただ、首都パリ市内を初めモン・サン・ミッシェル修道院やヴェルサイユ宮殿などをメインに、急ぎ足のツアー旅行でフランスを訪れる日本人は年間75万人前後だが、残念ながら、美しい村サン・シル・ラポピーや世界遺産のキリスト教巡礼聖地ロカマドールなど、南西フランスの本物の隠れた魅力を知っている人は非常に少ない。


「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー Saint-Cirq-Lapopie
「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー
美しい村サン・シル・ラポピーの位置

ボルドーから東南東190km/トゥールーズの北北東110kmに位置するサン・シル・ラポピーは、フランス中央高地・セヴェンヌ山脈を源流として、南西フランス・ミディピレネー地域の北部、ケルシー地方の丘陵地帯を蛇行しながら西方へ流れるロット川 Lot の渓谷左岸(南側)、川から標高差80m~100mの断崖絶壁の上にひっそりと佇み、斜面に広がる村の中心付近で標高210m前後である。
中世の時代には、村はカルダイヤック家を初めラポピー家など複数の封建領主(騎士)の家系により治められていたことから、辺鄙な地方の小さな村でありながら、今日でも高貴な邸宅が複数残されている。なお、村の名称・「サン・シル」は3歳の男児聖人シル(後述)から、「ラポピー」は中世の領主家系の一つの名残である。
複数の領主により建造と改修が繰り返されたサン・シル・ラポピーのシャトー城砦は、イングランドとフランスとの「百年戦争」やヨーロッパの「宗教戦争」で完全に破壊され廃墟となっている。しかし、20世紀に起こった二度の世界大戦の影響を受けなかった幸運にも助けられ、村には伝統的な建築様式の邸宅、花の庭園やテラスを備えたコロンバージュ様式や無表層でむき出し石積み造りの歴史を偲ばせる民家などが建ち並ぶ。

19世紀~20世紀にはポスト印象派アンリ・マルタンや思想家アンドレ・ブルトンなど多くの芸術家や知識人が、中世フランスの面影を色濃く残すサン・シル・ラポピーの美しい情景とロット渓谷の自然豊かな環境に魅了され、この小村へ移り住み、村はある意味で南西フランスの文化発信と芸術交流の拠点となっていた。坂道が多い村の路地にはかつての芸術家の住まいや博物館、あるいは現在の芸術家のアトリエや後援する芸術センターもあり、ツーリストの立ち寄りスポットとなっている。
また、丘上都市ゴルド(下写真)など陽光溢れる南フランスの片田舎の村々と同様に、サン・シル・ラポピーはその一昔前の懐かしい風情と言うか、「題材・モチーフ」には事欠かない。このためフランス国内は当然のこと、近隣のヨーロッパ諸国、あるいは遠く日本からも、特に風景画を得意とする美術志向の個人やグループが選択する隠れた旅行先の一つでもある。

ミディピレネー地方 地図 Map, Midi-pyrenees
ミディピレネー地方 地図/作図=Blog管理者legend ej
●参考公式サイト: 「フランスの最も美しい村」協会 http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/
●参考公式サイト: ミディピレネー観光局・「景勝地ベスト25」 http://www.tourism-midi-pyrenees.co.uk/

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「フランスの最も美しい村」ゴルド Gordes
「フランスの最も美しい村」 ゴルド/プロヴァンス地方
「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」
かつて中世の時代、サン・シル・ラポピーはイエスの三番弟子・聖ヤコブが埋葬された、スペイン北西の果てサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂まで、フランスから往復3,000km以上を徒歩巡礼するカトリック教・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の立ち寄りコースでもあった。
キリスト教の信仰が高まった中世の時代、特にフランスではスペインの聖地へ向けて、聖ヤコブのシンボル・「帆立貝」の飾りを胸に下げ、徒歩の苦行・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」が奨励された。出発地パリからの「ツゥールの道」、ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院(後述URL)からの「ヴェズレー(リモージュ)の道」、オーヴェルニュ地方ル・ピュイからの「ル・ピュイの道」、プロヴァンス地方アルルからの「ツゥールーズの道」、合計4か所の出発地と巡礼ルートが確定されていた。
ロット渓谷を含むケルシー地方は、そのフランス中央高地・ノートルダム大聖堂の聖地ル・ピュイから出発する「ル・ピュイの道」にカバーされていた。サン・シル・ラポピーは「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路(本道)」からわずかに外れていたが、中世街フィジャックからサン・シル・ラポピーで合流するセーレ渓谷を経由する「寄り道」が村を通過して、ロット渓谷下流のロマネスク様式の街カオールやモワサック修道院へ通じていた。
聖ヤコブのシンボルの「帆立貝」
路面に埋め込まれた帆立貝の巡礼飾り(道標)
ブルゴーニュ地方ヴェズレー大聖堂広場
●関連Webページ: 世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂
●関連Webページ: 世界遺産/キリスト教巡礼聖地ロカマドール/スペイン聖地への巡礼路
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サン・シル・ラポピーの複雑な歴史

1) 10世紀~村の興隆

サン・シル・ラポピーが歴史に登場するのは10世紀、地域を治めていたケルシー伯の命により、家臣の封建領主(騎士)オルドリック家 Oldoric がロット川の舟の航行管理や防衛も含め、戦略上有利な崖上のサン・シル・ラポピーに「最初の小砦」を築いてからである。
その後、11世紀後半になると当地を統括したトゥールーズ伯により、家臣の三つの封建領主(騎士)家系へサン・シル・ラポピーの領有と管理が委ねられた。その複数の家臣とは、交通の要衝フィジャックの北北西9km、「フランスの最も美しい村」に認定されたカルダイヤックを治めた封建領主(騎士)カルダイヤック家 Cardaillac、サン・シル・ラポピー村の名称となるラポピー家 Lapopie、聖地ロカマドールの西方20kmのグールドン周辺を治めたグールドン家 Gourdon である(上地図)。
また、三つの家系のほかに一時的には同じくトゥールーズ伯の家臣であり、ドルドーニュ上流域を治めたカステルノー家 Castelnau も加わり、さらに少し遅れた時代には、後述の封建領主(騎士)エブラルド家 Hebrard も村に強い関わりを持って来る。中世のサン・シル・ラポピーは非常に複雑な形態、複数の封建領主(騎士)家系による共同統治となった。
ただ、すべての家系がトゥールーズ伯の家臣であり、サン・シル・ラポピーの統治者同士は比較的友好な関係を保っていた。特に領主の居城に関しては、余裕スペースのない崖上というサン・シル・ラポピーの地形的な条件から、当初、三つの領主家系は同じ場所に隣り合わせで個別の家系シャトー城砦を建てることに決まった。

その共同城砦の場所はサン・シル・ラポピーの北側、現在の村の家並みから20m~30mほど高い岩の崖尾根が利用された。尾根の規模はおおよそ東西100m 南北45mほど、北側はロット川を見下ろせる100mの断崖絶壁、西側が最も標高が高く、東方へ徐々に低くなり、城砦区画は強固な城壁でぐるりと囲まれた(後述・市街地図=点線囲み部分)。
最初に家系シャトー城砦を建造したのは、1064年、カルダイヤック家ユーグⅠ世で、尾根の標高が低くなる東端の聖シル教会堂の脇のスペースが割り当てられた。その後、西端の高い露岩の場所に石積みの基礎と堅固なラポピー家の城砦が建ち、少し下がった中間区域をグールドン家が占有した。ただ、ラポピー家の遠縁と考えられるグールドン家の城砦については、近世の調査結果から「塔」があった可能性を否定できないが、家系城砦全体がどのような配置プランであったのか明確に分かっていない。
その後、12世紀には尾根の東端にロマネスク様式の初期の聖シル教会堂(後述)が建立された。同じ時期、共同城砦の南側斜面に今日見られるサン・シル・ラポピーの「村」が形成され、村全体も東西の二つの城門と地形に合わせた城壁に囲まれ、村の人達の住宅や商店も保護された。現在、村には当時の繁栄を伝える12世紀起源の幾らかの最古の建物が残っている。

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2) 12世紀~「百年戦争」

その後、フランスは戦争の時代へと移り、西部一帯の統治権を巡り、1188年、フランス王フィリップⅡ世(尊厳王)とイングランド王ヘンリーⅡ世との戦争が起った。後のイングランド王となるリチャードⅠ世は、イングランドに生まれ、フランス・アキテーヌ地方で育ったことから、父王ヘンリーⅡ世に反発してフィリップⅡ世に友好した。「第三次十字軍」に参加した英雄の一人であり、好戦的な生涯を送り、「武士道の鑑」とも言われたそのリチャードⅠ世により、サン・シル・ラポピーの城砦は攻撃を受ける。
その140年後、1328年、フランスではカペー朝最後の王シャルルⅣ世が直系の男子継承者のないまま亡くなり、Ⅳ世王の妹イザベルとイングランド王エドワードⅡ世の息子であるエドワードⅢ世(1327年~1377年)が、ヴァロワ朝初代のフランス王フィリップⅥ世(1293年~1350年)に対して「自らがフランス王の血を引く正当なる継承者」を主張した。
これ以降、フランス王位継承と経済的な繁栄をしていたフランドル地方(ベルギー&オランダ)の領地獲得と利権を巡る、フランスとイングランドとの政略的な争いはますます過激化、とうとう中世ヨーロッパの歴史を刻む「百年戦争(1337年~1453年)」が始まる。

勝ち負けが決まらない長~い「百年戦争」では、カルダイヤック家ユーグⅣ(1310年~1353年)の活躍も目立ったが、一方、同僚のラポピー家では同世代のギー・ラポピー(Guy Lapopie 1320年~?)がサン・シル・ラポピーの家系城砦を管理する時代、その息子ギーⅡ世・ラポピー(Guy II de Lapopie 1350年~?)が、ラヴェルニュ家ジーン Jeanne de Lavergne と結婚、一人娘のマルゲリータ・ラポピー Marguerite de Lapopie(ラポピー家最後の継承者: 下記コラム)が生まれる。
戦争の混乱が続く中、1400年、娘マルゲリータはフィジャック方面からサン・シル・ラポピーの北方を流れ、ロット川へ合流するセーレ川流域サン・シュルピス St-Sulpice の有力封建領主(騎士)エブラルド家 Hebrard のアーノルド・エブラルドの許へ嫁ぐ。なお、繁栄のサン・シュルピスのエブラルド家はサン・シル・ラポピーの共同城砦の内部ではなく、聖シル教会堂の東方50mの場所に家系シャトー城砦(Chateau de la Gardette 現在=博物館: 後述)を建造している。
ラポピー家系
村の名称となっている「ラポピー家系 Lapopie」に関して、家系はロカマドールの西方20kmのグールドンやサン・シル・ラポピーから北北西25kmのラ・バスティド・ミュラ La Bastide-Murat の周辺を治めた有力封建領主グールドン家 Gourdon から「分家」したと考えられる。
家系の詳細系譜は不明だが、(私の手持ち資料の範囲では)13世紀の末にゲルハルド Gelhard とベルトランド Bertrand のラポピー兄弟騎士がサン・シル・ラポピーの家系城砦を治めていた。その後、家系は14世紀には先代のギー・ラポピー、さらにその息子ギーⅡ世・ラポピー(1350年~?)へと継承されたと考えられる。
「百年戦争」の最中、14世紀の後半、ギーⅡ世・ラポピーとジーン・ラヴェルニュが結婚、一人娘マルゲリータが生まれた。しかし、領主ギーⅡ世には男子継承者が生まれなかったことで、15世紀、事実上ラポピー家系は男子断絶となった。
上述のように、ラポピー家の最後の継承者となった娘マルゲリータが、サン・シュルピスの有力領主アーノルド・エブラルドの許へ嫁ぐことで、その後、サン・シル・ラポピーの家系城砦も含め、ラポピー家の領地はすべてエブラルド家系が継承することになった。マルゲリータはフルタルド・エブラルド(1400年~1469年)など7人の子息(息子二人・娘五人)に恵まれた。
一方、同僚のカルダイヤック家系では、ユーグⅣ・カルダイヤック(1310年~1353年)の息子でサン・シル・ラポピーを治めたベルトランⅥ世・カルダイヤック(1330年~1395年)が亡くなり、サン・シル・ラポピーの家系領地は弟ギョーム・カルダイヤック(1340年~?)へ引き継がれ、間もなくしてその息子ベルトランⅦ世・カルダイヤック(1370年~1423年)へ継承される。
なおベルトランⅦ世は最初の妻との間に二人の娘をもうけ、次女マルゲリータがラポピー家マルゲリータと夫アーノルド・エブラルドの息子フルタルド・エブラルドの妻となる。アーノルド・エブラルドの妹ジェーンはカルダイヤック家へ嫁ぎ、三番目の妹ソーヴェラインがサン・シル・ラポピーのベルトランⅦ世・カルダイヤックの二番目の妻となっている。
このように、「百年戦争」の真只中、この時代にはサン・シル・ラポピーに関わる封建領主(騎士)家系カルダイヤック家とエブラルド家とラポピー家は、複雑で濃厚な血縁関係になって行く。そのベルトランⅦ世・カルダイヤックの時代、サン・シル・ラポピー城砦はイングランド軍の攻撃の的となり徹底的に破壊される。

1453年、1世紀に及んだ「百年戦争」が終わり、この間、城砦は破壊されたが、幸いなことにサン・シル・ラポピーでは、ほかのヨーロッパ諸国で猛威を振るった恐ろしいペスト病の蔓延もなく、農業の干ばつが発生したが社会的な混乱と経済の衰退はわずかで済み、その後、財政力に余剰があった領主家系により破壊された城砦の再建と修復が行われた。
この頃、ロット河畔に水車小屋が建てられ、村には特にロット川を往来する交易商人やワイン樽の栓やドアーノブを作る木工職人が多く住み着いた。しかし、間もなくして、繁栄のサン・シル・ラポピーに大きな出来事が起こる。「慎重王」とも呼ばれ外交の政治的な陰謀に長けたフランス王ルイXI世(1423年~1483年)に対して、生涯反目した弟ベリー公ヴァロワ・シャルル(1446年~1472年)に味方をしたという理由で、ルイXI世はフルタルド・エブラルドの息子(ラポピー家マルゲリータの孫)のレイモンドⅡ世・エブラルド(1424年~1507年)に、1471年、サン・シル・ラポピー城砦の破壊を命じた。
ただ、その後1483年にルイXI世が亡くなり、次のフランス王シャルルⅧ世(温厚王)はレイモンドⅡ世に恩恵を与え、15世紀の末期、破壊された城砦の再建が行われた。

3) 16世紀~「ユグノー戦争」~現代

戦いと混乱の時代は続き、中世ヨーロッパに平和や安定が到来することはなかった。16世紀に入り、諸侯・領主に反発した10万以上の農民が殺された「ドイツ農民戦争(1524年~1525年)」を初め、1525年にはアルザス地方の領主と農民の連合軍が強力なロレーヌ公の軍隊に対抗して、1日の激しい戦いで農民連合軍の死者約6,000人を数えた「シェーヴィラーの農民戦争」などが起こる。
社会の混乱はさらに増幅、聖書信仰による救済に重点を置く神聖ローマ帝国の大学教授マルティン・ルターの「贖宥状批判」から始まり、ローマ・カトリック教会に対する体制批判である「宗教改革」の戦争が、ドイツやチェコなど中央~東ヨーロッパ各地で勃発する。

●関連Webページ: 「シェーヴィラー農民戦争」 アルザス・ワイン街道(北部)オベルネ周辺/コロンバージュの村々
●関連Webページ: ヨーロッパの「宗教戦争」 世界遺産/チェコ共和国・プラハ城と旧市街広場/ヤン・フス戦争

フランスではジュネーヴ大学の創設者であり、カリスマ的な神学者カルヴァンから影響を受けたプロテスタント教会(改革派ユグノー教会)が、カトリック教会に激しく対抗した「ユグノー戦争(1562年~1598年)」の嵐が全土で吹き荒れる。
背景に王族の複雑な権力闘争が絡むこのフランスの宗教戦争では、カトリック教会派のヴァロワ朝フランス王アンリⅡ世の王妃であり、イタリア・メディチ家出身のカトリーヌと激しく対立した、ユグノー派の極を担う母親・ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの影響を受け、15歳でユグノー派の盟主となり、後にブルボン朝初代のフランス王アンリⅣ世となるナバラのアンリ(1553年~1610年)が居た。
ヴァロワ朝フランス王家はアンリⅡ世が馬上槍試合の不慮の事故で亡くなり、短命の息子フランソワⅡ世の後、その弟シャルルⅨ世が即位して、母カトリーヌが摂政となりユグノー派との戦いの先頭に立つ。ユグノー派との和解を図るため、太后カトリーヌは娘マルグリットとナバラのアンリとの政略結婚を提唱、その直後、母ジャンヌが急死(カトリーヌの暗殺?)したことでアンリがナバラ王位を継承する。
そうして敵対する新旧の宗派ながら、ユグノー派の18歳のナバラ王アンリと「絶世の美女」と言われたカトリック教会派の19歳のマルグリットは、1572年8月、パリ・ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。しかし、その6日後、婚儀の祝いにパリに集合した大勢のユグノー派の人々が暗殺される「聖バルテルミの大虐殺」が起こる。
この事件の影響はフランス全土へ拡大、粛清されたユグノー派の貴族と民衆の死者は3万人を数え、ユグノー派の盟主であるナバラ王アンリは保身からカトリック教への改宗を宣言した。しかし、激しく流動する政権と社会、直ぐ様に王アンリは再びプロテスタント教会派へ寝返り、社会の安定化どころか、なおさらに貴族階級と宗教界と庶民の動揺と混乱を助長するばかり。
宗教紛争が王位継承問題も含め宮廷内の熾烈な戦いと深刻な政治的な混乱を招く中、1589年、太后カロリーヌの息子でありヴァロワ朝最後のフランス王となるアンリⅢ世(38歳)が、指導力の欠如を理由に熱狂的なカトリック・ドミニコ修道会の修道士により暗殺されてしまう。この後、ナバラ王アンリから35歳でフランス王となったアンリⅣ世が、事態打開と保身を含めカトリック教への再改宗を行い、ユグノー派の宗教的な権利も保障したことでようやく戦争の終息をみる。

多くの犠牲者を生んだ「ユグノー戦争」の嵐は歴史に残る激流の大渦を巻き、当時のフランスの社会と宗教界は大混乱となった。この時代、南西フランスのサン・シル・ラポピーでは、家族がカオールの司教に就任したことからエブラルド家が実権を握り、さらにカルダイヤック家がユグノー派となったことから、1580年代、カトリック教会派の時期のアンリⅣは城砦の完全破壊を発令した。この後、サン・シル・ラポピー城砦が再建されることはなく、封建領主(騎士)家系は城砦を放棄せざるを得なかった。
ただし、サン・シル・ラポピーは木工加工と皮革加工をメインに活況を帯び、住宅の建設を初め12世紀起源の聖シル教会堂が16世紀ゴシック様式で再建されるなど、村は繁栄を享受する。さらに17世紀になると、ロット川の航行の開発に力が注がれ、河畔にはトウパス(曳き舟道:後述)や水路が整備され、舟を使った大規模な交易と農産物の増産が促進された。
19世紀の末には石炭や木材の運搬を目的に、上流の城塞都市カプドナック~下流の県庁カオールまで「ケルシー鉄道」が敷設された。20世紀が始まる1900年頃まで、物流関係者を初め40軒が稼働していたワイン樽の木製栓やドアーノブを作る旋盤加工の工房、皮革加工の熟練職人などを中心に、繁栄を極めたサン・シル・ラポピーは人口1,500人以上が暮らす大きな村(現在=220人)であった。今日、サン・シル・ラポピーでは唯一残った木工旋盤工房があり、ツーリストのお土産品などの木工製品が作られている。

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サン・シル・ラポピーの村の景観

村は軟体魚類・「エイ」の形容/「生きた民俗博物館」

「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピーでは、聖シル教会堂を初め、フランスの「歴史的建造物」に指定されている建造物&施設が13か所を数える。人口220人の小村で、これほど多くの貴重な文化財を保有する自治体は稀である。
指定を受けた対象物以外、村の建物はほとんどすべて中世~近世に起源を遡り、村全体が年月の経過である長い歴史、二十~二十五世代を越える家族系譜と各時代に起こった戦争と平和、喜びと涙の出来事を見て来た、言わば「生きた民俗博物館」とも言えるだろう。
鳥になってサン・シル・ラポピーの村を上空から眺めたなら、表現が適当かどうか?だが、ロット渓谷の南岸の崖上、不規則なゴツゴツした露岩の斜面に少し身体をよじった扁平体型の軟骨魚類・「エイ」の形を作って家並みが密集している(下地図)。「山の手駐車場」がある標高の高い西地区の方角がエイの「頭部」、東西250m 南北130mほどの「胸びれ&胴部」は東方へ向かうに従って徐々に低くなり、平坦になった位置から一本道の「尾」が東方へ100mほど緩やかなカーブを描き延びている、という感じであろう。
サン・シル・ラポピーの村内は中世からの細い坂道だらけ、平らな道は少ない。それがエイの「胸びれ&胴部」となる市街でランダムに交差して、年季の入ったさらに狭い無数の路地やトンネル通路、石畳の細道や急石段などに複雑怪奇に連結している。
エイの「尾」の先端に相当する村の東端から西地区の「頭部」へ向かって、幅は狭いが900年以上の歴史を秘めたメインとなる道路が、丁度エイの「尾骨&背骨」のように、柔らかく湾曲しながら密集する家屋群の「胸びれ&胴部」を貫通している。

サン・シル・ラポピー周辺地図
サン・シル・ラポピー周辺/作図=Blog管理者legend ej
ロット川の橋を渡り、キャンプ場がある東方から地方道D8号(ポルトロック通り Porte Roques)を徒歩で村へ昇って来るツーリストは、エイの「尾」の先端となる村の東端の城門・ペリサリア門(Porte de la Pelissaria 上地図)付近で、突然と視界が開け、眼に飛び込んで来るサン・シル・ラポピーの全姿に感動の声を上げ、私もそうであったが、ネット画像やガイドブックで見た「定番写真(トップ写真)」を撮ることになる。この時、誰もが皆揃って、「ワアア~~、キレ~~イ!」、お決まりの絶叫がロット渓谷に木霊(こだま)する。
そうして、「フランスの最も美しい村」と対面した興奮で急上昇した血圧値も気にせず、期待で胸踊る気分を押さえながら、門をくぐり、右手前方の斜面に密集するエイの「胸びれ&胴部」の家並みを目指して、100m余りの「尾」を描くペリサリア通り Rue de la Pelessaria を教会堂の方角へ向かうことになる。この中世からのペリサリア通りにも15世紀~17世紀の皮革職人達が住んだ古風な家々が建ち並んでいる。

あるいは車を使って村の南側の山腹を通る迂回アスファルト道路D8号で西方の山の手駐車場へ向ったなら、駐車後にアスファルト道路D8号の脇、エイの「頭部」にある郵便局脇のペヨルリー路地 Rue de la Peyrolerie へ下りることになる。かつて銅細工職人達が住んだこの路地は、観光案内所とツーリストで賑わうソンブラル広場 Place du Sombral、そして村で最も高い城砦跡の岩山へ向かって延びている。
また、風情あるペヨルリー路地の入口付近には、かつて城壁に囲まれていたサン・シル・ラポピーの西端の城門・ペヨルリー門 Porte de la Peyrolierie が存在した。今でもその痕跡が迂回アスファルト道路D8号の土手側に残されている。
東西の城門、どちらからアクセスしようが、サン・シル・ラポピーの村は小さく、密集家屋と迷路のようなエイの「胸びれ&胴部」の中で自分の位置を見失うことはない。ただ、サン・シル・ラポピーの家並みと風情を眼の辺りにした時、ツーリストが心の準備をしていないと、数百年前の中世の時間へ一気にタイムスリップさせられる激しい衝撃に対応できるかどうか?

「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー Hotel de La Pelissaria
「ホテル・ペリサリア」のモーニングテーブルからサン・シル・ラポピー村を眺める
●参考情報: 「☆☆☆ホテル・ペリサリア Hotel de La Pelissaria」
東城門ペリサリア門近く、16世紀に遡るシャトー様式の建物、伝統ある素晴らしい「ホテル・ペリサリア」は、残念なことに2009年10月を以ってホテル30年の歴史に幕を閉じ、通年ホテルとしての営業を止めてしまった。ただWeb情報によれば、6月~9月の4か月間限定で、5室=8名のみ、1週間単位の「レンタルルーム方式」での宿泊は可能となっている。2015年の料金は「朝食付き・1週間=E2,500=約¥35万」である。上写真、窓越しの光景はペリサリア通りの家並み。

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共同シャトー城砦の廃墟

歴史の中でサン・シル・ラポピーの興隆と発展を築き上げた封建領主(騎士)家系の共同シャトー城砦は、上空から見たエイで言えば「右胸びれ」付近に相当(上地図=点線囲み)、垂直に落ち込むロット渓谷の崖上、村で最も標高の高いゴツゴツ露岩の岩山に在った。尾根の最も高い西側にラポピー家、中間がグルドン家、比較的高い石積み城壁が残る聖シル教会堂に近い場所にカルダイヤック家の城砦が建っていた。
共同城砦はイングランドとフランスとの「百年戦争」や「ユグノー戦争」で大きく破壊され、16世紀の後半には完全に放棄された。現在、建物の基礎部と城壁を部分的に残しているが、全体は廃墟となっている。城砦跡は周囲に遮る物がなく、「定番写真」を撮るベスト展望台でもあり、ここから眺める斜面の村サン・シル・ラポピーと眼下に蛇行するロット渓谷、さらにパッチワーク模様の河畔の耕作地~遠くケルシー丘陵地帯の雄大な光景は絵のように美しい。

サン・シル・ラポピーのシンボルの聖シル教会堂

城砦跡の東隣、上地図で言えばエイの「右胸びれ」の先端付近、サン・シル・ラポピーのシンボルとなっている聖シル(下記コラム)を奉る聖シル教会堂(Eglise de St-Cirq/トップ写真&下写真)は、フランスの「歴史的建造物」に指定され、村内で中世の名残を最も顕著に伝えている大型建造物である。
聖シル教会堂は12世紀にロマネスク様式で創建、その後13世紀~15世紀に改修が行われ、今日の形容は1522年~1540年の再建時、名匠建築家とされるギョーム・カペル Guillaume Capelle が設計した南方ラングドック形式を取り入れたゴシック様式である。

サン・シル・ラポピー・聖シル教会堂 l'église Saint-Cirq
夕闇迫るサン・シル・ラポピー/夜間照明に浮かぶ聖シル教会堂
崖上の限られた狭い敷地スペースという条件から、外観は若干堅苦しい感じだが、方形屋根の鐘楼と狭い階段で昇る円形砲塔を付属する南入口の正面ファサードは、教会堂前の広場から見るとそそり立つ様に圧倒されるほど高い。
スペースの都合から南方へ向く珍しい扉口、その中央タンパン部の装飾は非常に簡素、見上げるファサードの鐘楼壁面には細棒とローマ数字(Ⅰ・Ⅱ・・・XII)の中世から日時計がある。教会堂内部は三廊式で全体は明るいクリーム色の表装、交差ヴォールト型の天井も高く、田舎風の比較的シンプルな祭壇を備える内陣は半円形である。わずかだが12世紀起源の渦巻きのように緩やかに揺れるアカンサス葉装飾、あるいは13世紀の古い壁画の断片も確認できる。
特に屏風のように立ち上がり、厚い柱状壁(バットレス/控え壁)で強化された窓の少ない堅牢な外壁面を東方から眺めるなら、ここが中世には要塞教会堂であったことを理解できる。崖側の後陣の外へ廻り込むと、ロット渓谷の絶景が期待できる展望テラスである。
また、右側廊の外側にはかつて村の繁栄を支えた木工職人の守護聖人、≪カタリナの車輪≫のアレキサンドリアのカタリナを奉る、半円形スペースの石積み構造、19世紀に再建された無装飾のロマネスク様式の礼拝堂が付属されている。
聖シル(キュリアクス)の物語
村の名称の由来となっている「サン・シル(聖シル St-Cirq)」とは、キリスト教世界で最も年齢の若い殉教者、3歳の「男児聖人キュリアクス Cyriacus/フランス=シル Cirq」のことである。
かつて地中海全域~ヨーロッパ内陸部まで支配した古代ローマ帝国、3世紀~4世紀の初めの時代、皇帝の権力強化と官僚制度の確立、専制政治と増税政策を強要、さらに普及してきたキリスト教への徹底的な弾圧と聖職者の投獄や粛清など、歴史に残る強権施策を推し進めたのがローマ皇帝ディオクレティアヌスであった。
伝承では、4世紀の初め、現在のトルコ中南部の古い街コンヤ(ローマ時代の古名=イコニウム)に住み、若くして未亡人となったキリスト教徒ユリッタ Julitta は、3歳の息子キュリアクスと慎ましやかな生活を送っていた。が、皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒への「最後の大迫害」が始まり、聖パウロの生誕の地である地中海沿岸の大都市タルソス(現在=タルスス Tarsus)へ避難した。
しかし、母子はタルソスのローマ帝国の強権な駐在代官アレキサンダーに捕まり、拷問を受け、母ユリッタは「キリスト教徒である」ことを告白した。代官は息子キュリアクスに拷問で苦しむ母親の姿をあえて見せつけたが、幼い息子は動じることなく、母親と同じように「キリスト教徒である」と答えたことから、怒りの代官はキュリアクスを裁判所の高い石段から投げ飛ばした。キュリアクスは石段を転げ落ち、鋭い角で頭部を強打してそのまま絶命してしまう。
神の許へ昇天した殉教の息子キュリアクスを労わり、なおも続く残酷な拷問の間にも神への感謝を奉げた母ユリッタは、その後、剣で首斬りとなり殉教した。母子共に殺害され、3歳のキュリアクスはキリスト教徒で最も幼い殉教者となった。その数年後、キリスト教を公認したローマ帝国はコンスタンティヌスⅠ世(大帝)の時代となり、母ユリッタと息子キュリアクスの遺骸はコンスタンティノーブル(イスタンブール)近郊に建てられた教会堂へ移され埋葬された。

サン・シル・ラポピーの中世の佇まい

聖シル教会堂前から南東へ50mほど、エイの形容で言えば「胸びら&胴部」の東外れ、「尾の付け根」付近に広いスペースではないがコルラール(キャロル)広場 Place du Corral がある。
コルラール広場の周りは中世の「住宅展示会場」も言えるほど、古い家屋が建て込んでいる。特に広場の北側、高い方形塔を付属した四階建ての変形建物は、13世紀に起源を遡る村で最古の建物の一つ、現在、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。
西側の平石を敷き詰めたテラス側がフロント切妻屋根の本館入口ファサードで、一見すると三階建てに見えるが、一段レベルが低いコルラール広場(駐車場)へ降りると、建物の全体が四階建てであることが分かる。一階から広場への出入りは建物の風格をかもし出す重厚なアーチ型木製ドアーの開閉、片流れ屋根で五階建てに相当する12世紀起源の高い塔は、本館の北東角部に組み込まれたように連結している。
中世にはサン・シル・ラポピーの騎士達が居住したとされ、その後、この建物の所有者は次々と替わり、村が繁栄した時代には「船乗りの宿屋 L'Auberge des Mariniers」と呼ばれたオーベルジェ(食事&宿泊)の時期もあった。1920年代になり、トゥールーズ生まれのポスト印象派アンリ・マルタン(Hanri-Jean-Guillaume Martin 1860年~1943年)が購入、後述の画商・資産家のヨセフ・リニョールなどと共にサン・シル・ラポピーへ移り住んだ。以降、建物は「アンリ・マルタンの邸宅(上地図)」と呼ばれた。
1943年にアンリ・マルタンが亡くなり、1950年以降、邸宅を思想家アンドレ・ブルトン Andre Breton が「夏の別荘」として購入した。アンドレ・ブルトンは、1896年、ノルマンディー地方ティシュブレ Tinchebry で生まれ、「ダダイスム運動」に参加、共産主義へ走りトロツキーに接近など過激な言動で知られ、無数の書籍を出版した作家で詩人でもあり、1924年の出版の後、芸術運動・「シュルレアリスム・超現実主義」のリーダーとして知られている。
邸宅の内部にはアンドレ・ブルトンが使ったバスルームやキッチン、真ん中に垂直柱(マリオン)を置く装飾窓の大広間、暖炉や横長で分厚い板を磨き上げたテーブルなど、家具調度品が残されている。

旧アンリ・マルタンの邸宅であり、1966年に亡くなるまでアンドレ・ブルトンの夏の別荘であった建物の北西側、邸宅入口前のテラスの擁壁面よりさらに一段上方レベル、アーチ型入口の三階建ての建物の屋根角には非常に特徴的な仕様、出窓の一種の出っ張ったゴシック様式の「小型の塔」が施工されている。
この建物は20世紀初頭の資産家であり有力者エミール・ヨセフ・リニョール(Emile-Joseph Rignault 1874年~1962年)に名前を由来したリニョール博物館(Musee Rignault 上地図)である。
かつて建物はセーレ川流域サン・シュルピスの封建領主(騎士)エブラルド家が、13世紀に岩山の狭いほかの三家系領主の共同城砦とは別に建てたシャトー・ガルレッツ城砦 Chateau de la Garlette であった。当初は騎士や兵士が居住した三つの建物で構成された城砦様式であったが、中世以降、「百年戦争」も含め破壊される度に修復が行われ、さらに20世紀になって所有者となったヨセフ・リニョールが、幾分上品な城館様式へ改造したとされる。
リニョール博物館の所蔵品はケルシー地方の工芸品、近代絵画、宝飾品、室内調度品など、常設のミックス展示が行われている。また、博物館の敷地には旧シャトー城館の中庭が残され、ここから眼下にロット渓谷を眺望できる。
画家アンリ・マルタンと画商ヨセフ・リニョール
ポスト印象派の特徴、自然の穏やかな光、点描技法で身近な風景や人物を描いたアンリ・マルタンの作品は、首都パリを初め、県庁カオールなどミディピレネー地方の美術館に多数展示され、点数は多くはないが日本の国立西洋美術館や東京富士美術館などでも所蔵・公開している。

ヨセフ・リニョールは、1874年、ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院の南西30kmの城壁村ヴェルジー Verzy で生まれ、ロワール川中流のベネディクト派修道院で有名なラ・シャリテ・シュル・ロワールやパリで美術を学んだ絵画コレクターであり、画商となった資産家である。
ヨセフ・リニョールは、1920年代の前半、同じく画商の友人エミール・ヴィノ Emile Vinot を初め、後述のピエール・ドーラ Pierre Daura や上述のポスト印象派アンリ・マルタンなど芸術家と共にサン・シル・ラポピーへ移り住み、ビジネスと文化交流を深化させ、地域遺産の保護に尽力して来た。なお、1962年に亡くなったヨセフ・リニョールは、サン・シル・ラポピーの崖下の墓地に埋葬されている。
なお、ヨセフ・リニョールなど美術に精通した関係者、あるいは芸術運動・「シュルレアリスム・超現実主義」のアンドレ・ブルトンなど、文学や思想家などの村への移住や別荘で夏を過ごすなど、1900年代の前半から、サン・シル・ラポピーの文化的な価値と魅力や人々の関心が加速的にフランス中に広まったと理解されている。
さらにヨセフ・リニュールとその家族の資金と最大限の努力により、今日ツーリストが見ることができる村の最大の経済資源、観光の目玉である歴史的な建造物の修復や城砦跡の保全が行われたとされる。
リニュール博物館から教会堂へ昇らずに、東方から延びるエイの「尾」のペリサリア通り Rue de la Pelessaria から名称が変わるメイン通り(正式=右の通り Rue Droite)へ向かうと、南方の迂回アスファルト道路D8号脇の「レストラン L'Atelier」から下って来る細い路地に合流する。この小さな交差点の南側にクラフトショップがあり、急階段と階上の屋根付きベランダに(春~夏~秋ならば)花を飾る古風な民家がある。この花とベランダの家もサン・シル・ラポピーを訪れるツーリストの「定番写真」のスポット(左下写真)である。
なお、家の窓辺や手摺りや階段に花を飾る習慣は、サン・シル・ラポピーだけでなく、東フランスの「アルザス・ワイン街道」の村々を初め、スイスやオーストリア、北イタリアなど、中央ヨーロッパ全体に共通するお馴染みの風景(右下&下写真)である。

花を飾る民家/サン・シル・ラポピー&「アルザス・ワイン街道」
左写真: 「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー
右写真: 「アルザス・ワイン街道」ケゼルスベルグ   
アルザス・ワイン街道 Alsace Wine Route
「アルザス・ワイン街道」イッタースヴィラー村/人口280人の美しい村
                 ●関連Webページ: legend ej の「フランス紀行」ページマップ
    「フランス紀行」ページマップ
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フランスの「歴史的建造物」に指定されているが、この交差点の西側、メイン通り(右の通り Rue Droite)に面するアーチ型入口の三階建ての建物は、1721年からサン・シル・ラポピーの執政官が管理した旧病院であった。三階の部屋には13世紀の支柱の間があり、梁には彫刻が施されている。建物の表に面する窓は真ん中に垂直柱(マリオン)を置き、上部が三つ葉装飾の美しいゴシック様式仕様である。
20世紀になり、建物はスペイン生まれの画家ピエール・ドーラ Pierre Daura の住居(上地図)となり、1930年~1939年、画家は妻ルイーズブレアと娘マーサと一緒に住み、1976年に亡くなるまでは毎年夏に滞在した。その後、建物は娘マーサによりサン・シル・ラポピー村へ寄贈され、現在、ミディピレネー地方評議会が管理する国際的なアーティストのための施設となっている。

聖シル教会堂前から西地区のソンブラル広場へ通じるメイン通り(右の通り Rue Droite)を昇って行き、サン・シル・ラポピー観光案内所の手前の左側(南側)に連続して寄棟屋根の古い建物が並んでいる。「ベサックの邸宅 Maison Bessac」と呼ばれ、フランスの「歴史的建造物」に指定されている、このコロンバージュ様式の二階建てと三階建ての建物の起源は14世紀に遡る。かつて商店として使われた通りに面する一階正面ファサードは、石積みと木材の古風なコンビネーション建築である。
また、村の西方の上地区、観光案内所とオーベルジェ(レストラン&宿泊)やカフェなどで賑わうソンブラル広場は、13世紀からマーケットが開かれたとされ、フランスの「歴史的建造物」に指定されている古い家屋が建ち並んでいる。特に広場の南側に建つコロンバージュ様式の数軒は、13世紀~14世紀に遡る建物で15世紀に改修された。

ロット渓谷と河畔の散策/トウパス(曳き舟道)

サン・シル・ラポピーで最も高い岩山の共同城砦跡やリニュール博物館の中庭などから眼下に広がるロット渓谷を眺望する時、右手下方350mほど離れてロット河畔に木々で囲まれた人工の水路のような施設が見える。これは15世紀に起源を遡り、18世紀に再建された水車と製粉工場、水路を堰き止めて水位調整する閘門(こうもん)施設(上地図)で、現在、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。水車の回転駆動による製粉の実作業は1966年に終止されたが、1999年に復元された挽き臼装置はデモ稼働のために機能している。
水車と閘門施設を見学するルートでは、サン・シル・ラポピーから東方2km、ロット川に沿って走る地方道D662号のツゥール・ド・フォール村 Tour de Faure からロット川の橋を渡り、地方道D8号でサン・シル・ラポピーへ向かう時、河畔のキャンプ場 Camping de la Plage を右側に見て間もなくすると、ロット渓谷と水車施設へ通じる分岐道路がある。あるいはサン・シル・ラポピーの「アンリ・マルタンの邸宅」のコルラール広場周辺から渓谷へ下る細い路地もあるので利用できる。

16世紀の混乱の「ユグノー戦争」が終わり、サン・シル・ラポピーは安定と繁栄を取り戻した。後の19世紀の末に石炭や木材の運搬を目的に、ロット川上流の城塞都市カプドナック~下流のカオールまで「ケルシー鉄道」が敷設される(下記コラム)。しかし、それまで何世紀もの間、ケルシー地方はロット川を航行するせいぜい35トンまで積載重量の艀舟(はしけ)と25m以下の平底舟など、小型舟を使った交易と物流が主流であったとされる。
17世紀になるとロット川のさらなる活用開発に力が注がれ、水路&閘門が整備され、より大型舟を使った食料や日用品を初め木材資源と加工品など大量物流が盛んになって来た。このため重い荷物を積載した大型舟が上流へ向かう際、河畔からロープで舟を牽引して航行補助するトウパス(曳き舟道 Chemin de Halage)が造られた。当初、男達による人力に頼り、後に馬を使った曳き舟作業へ発展して行く。
水車と閘門施設を経由して下流のブジー地区 Bouzies まで約3.5km、蛇行する川に沿ってハイクできる「ロット渓谷散策ルート」はアウトドアー・ツーリストに人気の高いトレッキング・コースとなっているが、この時代のトウパスの一部である。
サン・シル・ラポピー周辺のロット渓谷は川幅が狭く断崖絶壁が続き、河畔に通常の土のトウパスを造ることができない最大の難所であった。この問題解決のため、1845年、水面から少し上がった石灰岩の崖壁面を半トンネル状に掘削して曳き舟道としたオーバーハング状トウパスが完成した。
現在、サン・シル・ラポピーから下流のブジー地区との間、ロット川左岸で水位調整する「ガニル閘門(こうもん)Ganil-Lock」近くには、高さ2m以上、距離300mの半トンネル状の崖壁掘削トウパスが残っている。この人の手により掘削された崖壁面のトウパスは、徒歩のトレッキング愛好者だけでなく、ロット渓谷で盛んなボート・クルージングの人達も注目する必見スポットとなっている。
ケルシー鉄道
1880年代に複雑に蛇行する渓谷に沿って狭軌道の「ケルシー鉄道 Quercy-Rail」が敷かれた。その後、時代と共に活況を呈して来たケルシー鉄道は、ロット川下流の中世都市カオールと上流の「フランスの最も美しい村」の城塞都市カプドナックの間、蛇行しながら71kmを旧式のディーゼル駆動の客車を運行していた。また、夏の観光シーズンには古いタイプの客車を連結した蒸気機関車SLが、人気の観光用として週に3便ほどカオールと中流のカジャルクとの間46kmを低速走行で運行されていた。
しかし、その後、ケルシー鉄道は自動式踏切がないこと、建設当時のままの古い設備とメンテナンスの課題、直線がほとんどなくカーブが続く渓谷線路であること、130年前からの鉄橋や数多くのトンネルの安全性などを巡って、フランス運輸省当局からの営業路線の運行許可が取り消され、2003年の年末の運行を最後に全面運休となり、事実上の「廃線」となった。なお、廃線直前、ケイト・ブランシェット主演の映画≪シャーレット・グレー(2001年)≫のロケ撮影に使われ、古い客車を牽く蒸気機関車が何回も登場している。
ペッシュメルル洞窟 La Grottes de Pech Merle

歴史の街フィジャックから流れ下るセーレ川 Cele は、サン・シル・ラポピーの下流2,5kmほど、崖壁面トウパス付近でロット川と合流する。サン・シル・ラポピーから北北西5km、セーレ渓谷の村カブルレ Cabrerets の西方1km、標高300mのなだらかな山腹の地下から、1922年、二人の少年により25,000年前の岩絵を残すペッシュメルル洞窟が偶然に発見された。
直後からカブルレ村の神父 Lenozi が調査と研究を行い、洞窟は後期旧石器時代の人々が住んだ総延長2kmの巨大な鍾乳洞であることが判明、最古25,000年前に遡る「点紋様の馬」を初め、10,000年前までに赤色・朱色・黒色などの顔料を使って描かれた人間の姿や手形、マンモスやバイソン、ヤギやシカや牛など無数の岩絵や子供の足跡も残されていた。
1926年、洞窟内部の一般公開が始まり、博物館も併設され、ギャラリーと呼ばれる大きく三区分された大空間や凹み空洞が連続する洞窟内では、個人ツーリストの見学のみならず、学校の生徒達やグループなどの洞窟スクーリングも行われている。なお、ペッシュメルル洞窟はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。
また、セーレ渓谷とロット渓谷では、カブルレ村を基点する半径5kmの範囲だけでも、合計10か所、多くの洞窟は長さ25m~150m前後、後期旧石器時代の人類の痕跡を確認できる鍾乳洞が見つかっている。このエリアではペッシュメルル洞窟が一般公開されている最大規模の鍾乳洞で、ほかは非公開となっている。
セーレ渓谷・カブルレ村 Cabrerets
サン・シル・ラポピーから北北西5km、標高150m、セーレ渓谷のカブルレは人口200人ほど、サン・シル・ラポピーよりさらに小さな村である。直ぐ北背後に標高差100mの石灰岩の高い崖が屏風のようにそそり立つ渓谷の中、セーレ河畔にできた三角形の平地に村の家並みが形成されてきた。
ロット渓谷から地方道D41号でセーレ渓谷を北上すると、村の最も南側の崖上にフランスの「歴史的建造物」に指定されているカブルレ城砦・「悪魔の砦」が待ち構える。かつて、12世紀の終わり、イングランド・ヘンリーⅡ世の息子であり、好戦的なリチャードⅠ世がサン・シル・ラポピーの城砦を攻撃した後、遅くとも1259年、ボルドー南東の白ワインの名産地バルザックの領主が、セーレ渓谷の「関所」となるカブルレの崖上に初期の城砦を建造した。
その後、14世紀になると「百年戦争」が始まり、1380年、イングランド配下のアキテーヌ軍がカブルレ城砦を占拠した。さらに10年後の1390年、ラポピー家の最後の継承者マルゲリータの夫アーノルド・エブラルドの父、セーレ渓谷サン・シュルピスの有力封建領主(騎士)ジョンⅠ世・エブラルド(?~1417年)が城砦を攻撃して破壊する。
地方道から20m以上高い崖上、直径15m弱の巨大な円形砲塔が二棟、城壁のような現在の「L字形容」の要塞様式の堅牢なカブルレ城砦は、16世紀の初期、「ユグノー戦争」の直前に再建され、17世紀に改造されたものである。
また、城砦の足元のセーレ河畔には三階建ての大型水車小屋があり、その道路脇には大型石臼(いしうす)を目印に置き、かつてこの水車で挽いた小麦粉を使ってパンを焼いていたパン屋が今でも営業をしている。
「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー Saint-Cirq-Lapopie
サン・シル・ラポピーの宵/照明された古風な村の建物と聖シル教会堂が浮かび上がる

サン・シル・ラポピーで地元料理を味わう/鴨(アヒル=カナール)料理

ロット渓谷周辺では鴨(アヒル=カナール)の飼育が盛んで、美味な地方料理の食材としてたくさん使われる。サン・シル・ラポピー村で食事のチャンスがあるならば、この鴨(カナール)を使ったディッシュをオーダーすることを推奨したい。同じケルシー地方の聖地ロカマドール周辺の有名な仔羊料理に勝るとも劣らない鴨料理の味わいは、「フランスの最も美しい村」に相応しい忘れ難い経験となるでしょう。
できれば村がカンテラと橙色の夜間照明で淡く輝く夕刻の頃、村の全容を眺められるレストランの席を早めに確保するなら、それこそが「一生もの」の美しい映像記憶と感動物語となるはずだ。

眼も開けられない猛烈な砂嵐が吹き荒ぶサハラ砂漠のオアシスでも、朦朧とする灼熱の気温60℃、真夏の中東イエメンの砂漠地方でも小麦粉と塩味だけで焼いた、膨れていないパンを食した経験もある私は、首都パリ・16区の白いテーブルクロスの高級レストランで小指を立てて食べたと推測できる写真付き豪華なグルメ・メニュー、絵日記ブログに見かけるような知ったかぶりの食事の自慢話はできない。
しかし、日本が東洋の「経済三流国」と呼ばれ、白黒テレビはあったが、まだ「海外旅行」という単語が存在しなかった1972年以来、世界47か国、1,250か所の町や村々を旅して狭い経験論(下記サイトマップ Site-map)を積み重ねて来た。その現場主義から言えば、ヨーロッパやアフリカ、中東やアジアなど人が生活さえして居れば、砂漠や辺鄙な山岳地帯でも熱帯地域でも何処でも、見た目の美観の良し悪しを問わなければ、必ず「美味な地元料理が存在する」という普遍の地球哲学を知っている。
格好付けが苦手な私には、豪華なグルメ・メニューより少々土の匂いのする「地元料理」が似合っている。

●関連Webページ: 南西フランスの仔羊料理 世界遺産/キリスト教巡礼聖地ロカマドール
●関連Webページ: 灼熱の砂漠と山岳高地 3,000年の歴史と誠実なる人々の住むアラビア半島・イエメン
●関連Webサイト: 海外旅行1,200日・世界47か国 旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」
legend ej の世界紀行
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フランス: 夏 ラベンダーの花咲く季節/南仏プロヴァンス地方セナンク修道院
       花のある風景/アルザス・ワイン街道・コロンバージュ様式の美しい家並み
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EU諸国: ヨーロッパの「最も美しい街」は? 経験論からⅠ部(北欧~中欧~東欧)

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